2011年8月21日 (日)

継体天皇が眠る「今城塚古墳」

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「今城塚古墳」は第26代「継体天皇」の真の陵墓ではないかと言われている古墳です。

この古墳は6世紀前半に築かれた淀川流域最大の前方後円墳で、大阪府高槻市郡家新町にあります。

天皇陵墓とされていなかったために荒廃していましたが、高槻市によって発掘調査や整備が行われてきました。

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そして10年間の発掘調査と7年間の整備工事が終了し、古墳公園と古代歴史館を併設した「いましろ大王の杜」(無料)として一般に公開されました。


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墳丘は一部整備修復されましたが、崩壊した墳丘と自然に生えた樹木は以前のままです。


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また、内濠は一部に水が入れられていますが大半が芝生広場として整備されました。


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内濠を囲む内堤には埴輪祭祀場が再現されています。


併設された「今城塚古代歴史館」には、三島古墳群の概要と今城塚古墳の調査出土品・復元石棺などが展示されています。
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「今城塚古墳」に葬られたと言われる「継体天皇」は、今から1500年前「日本書紀」によれば西暦511年10月に「樟葉宮」(大阪府枚方市)から「山背筒城宮」(京都府京田辺市)へ遷都したとされています。

アクセス
JR京都線 摂津富田駅 徒歩30分
市営バス「今城塚古墳前」又は「氷室」

参考資料 
高槻市「いましろ大王の杜」パンフレット

2009年1月18日 (日)

番外編 「紫式部」と「催馬楽(さいばら)」

Img_8025 今から千年余り前、「紫式部」は越前国の国府「たけふ」の地でひと冬を過ごしたと言われています。



Img_6322 越前国府が置かれていた「たけふ」の地名は古代伝承歌謡「催馬楽(さいばら)」の中の「道口(みちのくち)」という曲に登場します。



「道 口」

「みちのくち たけふのこふに われありと おやにまうしたべ こころあひのかぜや さきむだちや」


木村紀子訳注の東洋文庫「催馬楽」(平凡社)や臼田甚五郎訳注の日本古典文学全集「催馬楽」(小学館)などによれば、「催馬楽(さいばら)」は平安時代頃まで琴・琵琶・笛・筝・笙・篳篥などで奏でる曲と共に歌い継がれていた歌謡だそうです。

しかし、当時すでに「古謡」として位置付けられ、本来は世相を歌った庶民の労働歌のようなものらしいのですが、その成り立ちや意味が解らないまま、口伝として受け継がれていたそうです。

古代の伝承歌謡には「催馬楽」のほかにも「神楽」・「風俗(ふぞく)」があり、この中で神事などに関わりのある「神楽」は現在まで伝承されていますが、「風俗」は平安時代には衰退していたようです。


Img_7967_2 さて、今から千年余り前の平安時代中頃に一条天皇の中宮「彰子」に女房として仕えた「紫式部」も「催馬楽」についてよく知っていたようです。

「紫式部」が書いたとされる「源氏物語」の巻名の中には「梅枝(うめがえ)」・「竹河(たけかわ)」・「総角(あげまき)」・「東屋(あずまや)」と言う、「催馬楽」の中の曲名が使われているそうです。

また、物語の中にも20曲ぐらい「催馬楽」の曲を連想させる文章があるそうです。

「催馬楽」は平安時代末ごろには衰退して、僅かに残って伝わっていた61曲を体系的に取りまとめた、源雅信の流れを組む「源流」や藤原氏に伝わる「藤流」の楽譜とも言うべき本が後世に写本として伝わっているようです。
しかし、歌い方や曲は符号として残っているのみで、何度か復元に取り組まれていますが、当時とはすこし違っているようです。

Img_7927 さて、「催馬楽」の中の「道口(みちのくち)」のほかに「刺櫛(さしくし)」にも登場する「太介不(たけふ)・太介久(たけく)」の語源は定かではありませんが、「源氏物語」の中でも「たけふのこふ」と記していることから越前国府が置かれた地域が「たけふ」と呼ばれていた事は事実のようです。

しかし、「延喜式」や「和名抄」などに記述がない事から公式的な呼び方ではなかったようでず。

中世には「府中」と呼ばれていましたが、明治時代の初めに大都市以外の地を「府中」と呼ぶ事は好ましくないというお達しが政府より出たために「催馬楽」に残る古い呼び方「たけふ」が町の名前として使われることになりました。
そして「たけふ」に対する漢字として「武生」があてられることになったそうです。

なぜ、「武生」という漢字になったかは不明ですが、「竹」がたくさん生えていた所から「竹生」あるいは「竹府」と書かれたことに加えて、この地を長く治めていた「本多氏」に対する忠誠心が強く、武士に対する誇りを保っていた土地柄だったために「竹」を「武」に変えて「武生」としたと言う説があります。

Img_5906 また、「継体天皇」の伝承が伝わる土地であったことから「続日本紀」称徳記の天平神護元年十二月の記述にある馬飼いに優れた百済系の渡来氏族に与えられた「武生」という氏族名から「武生」となったという説もありますが信憑性は不明です。

明治42年ごろ発刊された郷土誌「若越小誌」(福井県)によれば、藩は「武生」の読み仮名を「タケヲ」と記したが俗に「タケフ」と読まれたと記しています。

現在は平成の市町村合併によって「武生市」と言う由緒ある名前から「越前市」に変わっています。

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2008年10月18日 (土)

番外編 「紫式部」と「藤原道長」

Img_7446 「紫式部」が女房として仕えた中宮「彰子」は「藤原道長」の娘です。





「藤原道長」は藤原一門の墓地「木幡」に先祖供養の為に自らが創建した「浄妙寺」の南山腹に眠っています。
これは息子「頼道」が墓参した経路から推測されるそうです。
現在、「木幡小学校」グランドに「浄妙寺」の遺構が確認されているそうです。
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また、「道長」の墓地は木幡の住宅地に点在する宮内庁が管理する「宇治陵」の中の32号あるいは隣接する33号ではないかと推測されています。
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なお、「宇治陵」の総拝礼所は「木幡駅」南東約300mにある宮内庁管理事務所にある1号陵墓で、ここには「藤原氏墓所」の碑もあります。
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「藤原道長」は「藤原不比等」の次男「房前」から続く「藤原北家」の出身で父「藤原兼家」の五男(四男との説もある)として生まれました。

父「藤原兼家」は幼い「一条天皇」の外祖父として4年間「摂政」となって権力を握り、死後は摂関の地位を長男の「道隆」、次男の「道兼」が受け継ぎましたが、いづれも病気で短命に終わりました。

そして五男の権大納言「道長」に権力者になる好機が巡って来ました。
このとき、権力を争ったのが兄「道隆」の息子内大臣「伊周(これちか)」でした。

しかし、「道長」の姉である「円融天皇」の妃で一条天皇の生母「東三条院詮子」の強力な助言によって関白に次ぐ地位の「内覧」に任じられて権力者への道が開かれました。

また、「道長」の妻「倫子」は「宇多天皇」の血筋を引き、この二人の間に生まれた娘「彰子」・「妍子」・「威子」・「嬉子」は「一条」・「三条」・「後一条」・「後朱雀」の各天皇に入内しました。

話は戻りますが、権力を得た「道長」は権力を争った「伊周」の妹「定子」が一条天皇の中宮となっているにも関わらず、娘「彰子」を無理やりに中宮として入内させました。

二人の中宮が並び立っていた異常な時期に中宮「彰子」に仕えるように要請されたのが「紫式部」です。
「紫式部」の出仕に際しては「道長」の妻「倫子」が強く要請したと言われています。
「倫子」は「紫式部」と「またいとこ」の関係にあり、出仕後は「紫式部」の後見人的立場にあったそうです。

さて、「紫式部」と「道長」の関係については男女の関係が噂されていますが、真相は定かではありません。

当時、中宮への取次ぎの女房との間に男女関係が生まれることは宮中で良くあったことであり、また権力者「道長」に逆らうことは難しかったと推量されます。

一方、「紫式部日記」に「道長」が忍んできたが戸を開けずに居たと記述されていることや「倫子」との関係から男女の関係にはなかったと推量する見方もあります。

寛弘5年(1008年)9月11日、「道長」の邸宅の一つ「土御門殿」へ出産の為に里帰りしていた中宮「彰子」が「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産しました。

この「土御門殿」での暮らしは「紫式部日記」に綴られています。

このように栄華を誇った「道長」は晩年、出家して土御門殿と東京極大路をはさんで東隣に「法成寺」を創建しました。
そして万寿4年(1027年)12月4日にこの「法成寺」で生涯を終えました。
現在、京都御苑東側の上京区河原荒神口西入ルにある高校の校舎とグランドの間を通る市道の北面に「法成寺跡」の小さな石柱が建っています。
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この時代の様子については右大臣「藤原実資」が記した「小右記」や「道長」自身が記した「御堂関白記」などの日記の中に見ることが出来るそうです。


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1 廬山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
2 紫式部墓所(北区紫野西御所田町)
3 千本ゑんま堂(上京区千本鞍馬口下ル閻魔町)
4 一条殿跡(上京区大宮通中立売上ル糸屋町)
5 土御門殿跡(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
6 法成寺跡(上京区荒神口通寺町東入ル)
7 東三条殿跡(中京区押小路通釜座西北角)
8 一条天皇陵(右京区朱山)


木幡地域地図
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参考図書
日本の歴史6 王朝と貴族  朧谷 寿  集英社

日本の歴史6 道長と宮廷社会 大津 透  講談社

紫式部伝 その生涯と「源氏物語」
                 角田文衛  法蔵館

京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
           坂井輝久  井上 匠    淡交社

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2008年10月 2日 (木)

番外編 「紫式部」と「一条天皇」

Img_7446 「源氏物語」を書いたと言われる「紫式部」は第66代「一条天皇」の中宮「彰子(しょうし)」の女房として仕えていました。



「一条天皇」は第64代「円融天皇」と藤原兼家の娘「詮子(せんし)」との間に生まれた皇子で、第65代花山天皇の譲位によって寛和2年(986年)わすか7歳で即位することになりました。

そして、寛弘8年(1011年)に32歳で崩御するまでの25年間も在位して平安王朝文化を花開かせた天皇です。

陵墓は京都市内を一望できる右京区龍安寺朱山にある「龍安寺」の裏山山腹にある「一条天皇円融寺北陵」です。
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「一条天皇」は即位後、正暦元年(990年)元服し、藤原兼家の娘「定子(ていし)」を中宮としました。
中宮「定子」の女房には「枕草子」を書いた「清少納言」がいます。

長徳元年(995年)に摂関家内部の対立が起こり、藤原道長が勢力を得て天皇の側近「内覧」となりました。

この政変により長保元年(999年)に藤原道長の娘「彰子」が入内することになり、一条天皇は二人の皇后を持つことなりました。

Img_7533 しかし、一条天皇は皇后「定子」の方を寵愛しましたが、第二皇女を出産後の長保2年(1000年)12月16日に皇后「定子」は亡くなってしまいました。
皇后「定子」の葬儀は「六波羅蜜寺」で行われ、都の南東にある「鳥辺野(とりべの)」に葬られました。

現在、皇后「定子」の陵墓とされる「鳥辺野陵」は東山区今熊野泉山町の山腹にあります。
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Img_7378 その後、中宮「彰子」との間に、のちの「後一条天皇」や「後朱雀天皇」を設け、藤原道長とも程よい関係を続けました。一条天皇は火災により一時的に「一条院内裏」を離れることがありましたが、中宮「彰子」と共に「一条院内裏」で暮らしました。(一条院跡 大宮通中立売上ル糸屋町付近)

「一条天皇」は寛弘8年(1011年)病に倒れ、6月13日に冷泉天皇の第二皇子にあたる「三条天皇」に譲位して22日に崩御しました。

7月8日に北山の「岩陰」(衣笠鏡石町)の地で火葬に付されました。
遺骨は東山の鹿ヶ谷にあった「円成寺」に一時預けられましたが、9年後に現在地の「龍安寺」裏山山腹に葬られました。

「龍安寺」の所在地には当時父「円融天皇」が譲位後に出家して余生を過ごした「円融寺」がありました。
「円融天皇」は裏山山頂で火葬に付され、約1.5キロ西にある「福王子町」の「円融天皇後村上陵」に葬られています。

現在、「一条天皇円融寺北陵」へは「龍安寺」駐車場奥から裏山沿いにある「消防用道路」を標識に従って進むと谷間にある宮内庁管轄陵墓地に達します。
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ここには右手に三条天皇の子で後朱雀天皇の皇后「禎子内親王」、左手に「後朱雀」「後冷泉」「後三条」の各天皇陵墓があります。


この陵墓の間の谷間沿いに登って行く山道を約15分登ると杉林が開けて「一条天皇」および「堀河天皇」の陵墓に着きます。
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また、ここから約200m登ると「円融天皇」火葬塚に着きます。



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鳥辺野陵へは、剣神社から約1キロ(徒歩約15分・地図の点線部分は階段)


参考文献
京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
(文 坂井輝久 ・ 写真 井上匠  淡交社)

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2008年9月26日 (金)

番外編 「紫式部」と「小塩山」

Img_7446 今から千年前に書かれたと言う「源氏物語」の著者「紫式部」は長徳2年(996年)夏、越前守に任命された父「藤原為時」と共に越前国の国府「たけふ」に入った。


一年半余りの短い滞在であったが、後年編さんした歌集「紫式部集」には越前国府で作った歌を残しています。

Img_6293 この中の一つに越前国府近くの名山「日野山」の雪を詠んだものがあります。




暦に、初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳という山の
雪いと深う見やらるれば、

  「ここにかく日野の杉むら埋む雪 
           小塩の松に今日やまがへる」


Img_7504 この都を想って詠まれた歌の中にある「小塩」は、平安京の南西にある「小塩山」のことだそうです。



「小塩山」の東山麓は「大原野」と呼ばれて平安時代初めには皇室の狩場として利用され、「藤原氏」の氏神を祀った奈良の「春日大社」を勧請した「大原野神社」が鎮座しいる聖地でもありました。
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また、歌人として有名な「在原業平」が晩年この地に隠棲して数々の歌を詠んだところでもありました。

「紫式部」がなぜ「日野岳」と対比して「小塩山」を連想したのかについては、「在原業平」の歌を知っていて自身の心境と重ね合わせたと言う説や紫式部自身が「大原野神社」に参拝したことがあり、神聖な「小塩山」の印象が強かったなど諸説あります。

その中の一つには古北陸道が現在よりも西側の山麓を通っていたことから、「紫式部」が暮らしていた近くにあって「日野岳」に対面している国府手前の古北陸道沿いの地区「王子保(大塩保)」から連想したのではないかと言う説もあります。


Img_7487 「大原野神社」へは
JR向日町駅または阪急東向日駅から「南春日町行き」バスで約20分終点「南春日町」下車、徒歩約10分
(京都市西京区大原野南春日1152)


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Img_7445 越前市にある「紫式部公園」は
JR北陸線「武生駅」から約3キロ
(福井県越前市東千福町20)



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参考文献
紫式部伝 (斎藤正昭 笠間書院)

京都の地名検証 (京都地名研究会 勉誠出版)

紫式部日記付紫式部集 (中野幸一編 武蔵野書院)

京都紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
  (坂井輝久・井上匠  淡交社)

紫式部 (清水好子 岩波書店)

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2008年9月23日 (火)

番外編 「紫式部」と「平安京」(2)

長徳3年(997年)秋、後の「紫式部」は父「藤原為時」の赴任地「越前国」から都に戻ったと言われています。

「紫式部」が暮らしていた頃の「平安京」は都の南西部が衰退し、変わって東部(左京)及び北東部が発展してきました。
「紫式部」が生まれたのは西暦970年頃から80年頃と推測され、当時の結婚形態が妻の家へ夫が通う「通い婚」で在った事から母「藤原為信の娘」の自宅(所在地不明)で生まれたと考えられるそうです。
しかし、母は弟を出産した後に亡くなったそうです。


Img_7398_2 その後は父「藤原為時」の自宅で教養を身に付け、宮中に出仕するまで過ごしたと言われています。
この「藤原為時」宅は「平安京」の北東端、「東京極通」の東側端に沿って流れていた「中河」沿いに在った曽祖父「藤原兼輔(堤中納言)」から受け継がれた家だったそうです。
現在は「東京極通」が「寺町通り」に変わって、少し道筋が変わっていますが、「京都御苑」の東側にある「廬山寺」付近に在ったと推測されています。


「紫式部」は「越前国」から戻った後、「藤原宣孝」と結婚して娘「賢子(後の大弐三位)」を生みますが2、3年後に夫と死別しました。

その後、子育てをしながら中河の家でのちの「源氏物語」としてまとめられる短編の物語などを書き始めて次第に実力が評価されるようになってきたそうです。

寛弘2年(1005年)或いは3年頃の師走、12月29日に「一条天皇」の中宮「彰子」の女房として宮中へ出仕することになったそうです。
しかし、この頃「内裏」は火災で焼失していて、「一条天皇」は仮の内裏である「里内裏」に居たとされていて寛弘2年の出仕の場合は大内裏南東近くにあった「東三条殿」が最初の出仕場所になります。
現在地は「二条城」の東約300mの押小路通釜座付近の上松屋町付近に在ったそうです。

また、翌年の寛弘3年の場合は大内裏の北東に隣接した「一条院」になるそうです。
現在地は一条戻り橋から西へ約300mの大宮通中立売上ル付近(糸屋町の名和児童公園)になります。
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「紫式部」は寛弘5年(1008年)に中宮「彰子」の懐妊に伴い「彰子」の父「藤原道長」の館「土御門殿」で一時期を過ごし、この時のことは紫式部が書き残した「紫式部日記」に見ることが出来ます。
「土御門殿」の現在地は「京都御苑」の寺町通沿い中央付近にある「仙洞御所」の一部を含む「清和院御門」周辺にあったそうで、「紫式部」が住んでいた旧「堤中納言」邸の斜め向かいに在ったとされています。
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さて、「紫式部」の晩年は不明で、中宮「彰子」が内裏を後にして「上東門院」となってからも使えて、一時は娘「賢子」と共に使えていたそうです。
しかし、亡くなった時期は不明で諸説ありますが長和年間(1012から1016年)頃ではないかと言われています。

現在、北区の北大路通りを南に下った堀川通り沿いの「島津製作所紫野工場」入口付近に「紫式部」の墓と伝わる塚があります。
この塚は「小野篁(おののたかむら)」の塚と並んで置かれ、これらの墓の伝承は室町時代初めごろには存在したそうです。
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また、真偽は別として「船岡山」南西山麓近くにある平安時代の墓地の一つ「蓮台野」の入口に位置する千本通り沿いの「千本ゑんま堂(引接寺いんじょうじ)」の境内には「紫式部」の供養等と伝承されている石塔があります。
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Img_7384  さらに大徳寺真珠庵にある井戸の水で「紫式部」が産湯を使ったと言う伝承も伝わっているそうです。




因みにこの周辺の地名を「紫野」と言うのは「紫式部」に因んだものだとも言われています。


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1 廬山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
2 紫式部墓所(北区紫野西御所田町)
3 千本ゑんま堂(上京区千本鞍馬口下ル閻魔町)
4 一条殿跡(上京区大宮通中立売上ル糸屋町)
5 土御門殿跡(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
6 法成寺跡(上京区荒神口通寺町東入ル)
7 東三条殿跡(中京区押小路通釜座西北角)
8 一条天皇陵(右京区朱山)


参考文献
紫式部伝 その生涯と「源氏物語」 (角田文衛 法蔵館) 

紫式部伝 (斎藤正昭 笠間書院)

紫式部 人と文学 (後藤幸良 勉誠出版)

京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
    (坂井輝久・井上匠  淡交社)

京都時代MAP 平安京編 (新創社編 光村推古書院)

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2008年9月21日 (日)

番外編「紫式部」と「平安京」(1)

西暦996年(長徳2年)夏、「藤原為時」の娘、後の「紫式部」は父と共に住み慣れた都を離れ「逢坂峠」を越えて、北国の赴任地「越前国」へ向かったと言われています。

さて、「紫式部」が暮らした都は「桓武天皇」によって延暦12年(793年)から造営が始まった「平安京」です。

「平安京」は翌年(794年)10月22日に「桓武天皇」が新京に遷り、都の名前を「平安京」と名づけそうです。
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「平安京」は京都盆地の東を流れる「賀茂川」と西を流れる「桂川」に挟まれた北東から南西に傾斜した地に造られました。

元来、この地は律令制に基づいて8世紀の中頃には南北及び東西方向に条里が引かれていて、これを多少変更して中国の都「長安」を参考にして都の造営を行ったそうです。
「平安京」のメインストリート「朱雀大路」は現在の「千本通」に当たり、都の正門「羅城門」は「東寺」から西へ約500mの国道171号から少し北に入った所にあった言われ、現在は小さな公園の中に「羅城門跡」と書かれた石柱建てられています。
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また、「大内裏」の入口に当たる「朱雀門」は現在の「JR二条駅」から千本通りを北へ約250m当たりに在ったと言われ、小さな石柱が建てられています。
なお、「JR二条駅」前に発掘当時の写真や説明が書かれた案内板が設置されています。
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「平安京ー京都 都市図と都市構造」(金田章裕編)によると「平安京」は桂川に近い南西部の低湿地帯が荒地のまま開発されず未完成の状態で月日が過ぎて、190年後の紫式部が生まれた頃には都の正門に当たる「羅城門」は倒壊し、立地条件の悪い都の西部(右京)域は衰退傾向にあったそうです。

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2008年2月10日 (日)

番外編 「紫式部」と「たこの呼坂」

長徳2年(996年)に越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国に下向した「紫式部」は1年半余りを過ごした越前国府を後にして都に戻ったと言われ、都に帰る途中に詠んだとされる歌が「紫式部集」に記されています。

この中の一つに

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉よりいと多く出で来れば

ましもなほ 遠方人(をちかたびと)の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂

と詠んだ歌があります。(底本 陽明文庫蔵本参照)

Img_6188 内容は、都へ向かう途中、かえる山を越えるところに呼坂と呼ばれているとても難儀な険しい道で輿も担ぎ辛く恐ろしいと思っているとき、木の葉の中から猿がたくさん現れた

猿よ、お前もやはり遠方人として声をかけ合っておくれ、
私の越えあぐねているこの谷の呼坂で

と心細い帰路の心境を詠んでいるそうです。(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」参照)


この中に登場する「呼坂(よびさか)」がどこにあるのかについては幾つかの説が出されています。

一般的には官道「北陸道」にある急峻な谷坂、或いは古北陸道にある山中峠付近とされていますが、写本の中の「定家本」や古本の一部には「たごの呼坂」と記されていることから「たご」或いは「たこ」という地名のところとも言われています。

Img_6468_2 「南條郡誌」によれば、「かえる山」を通る官道「北陸道」沿いにあるとして、「木ノ芽峠」を越えて「敦賀浦」手前の山地にある「越坂(おっさか)」から「越坂峠」を越えて「田結(たい)浦」に下る「田越坂」をこの「呼坂」としているそうです。
現在、「田越坂」は田結の谷間に砂防提が造られ、永らく使用されず荒れ果てています。
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Takosaka22 一方、上杉喜寿氏の著書「越前 若狭 歴史街道」によれば、「かえる山」は昔の「鹿蒜(かえる)郷」を含む広い範囲の山の総称とされることから、「鹿蒜郷」に隣接する「大谷浦」地籍に残る「蛸(たこ)谷」から「大谷浦」に下る坂を「たこの呼坂」としています。
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また、「万葉集」に登場する「手児の呼坂」(静岡県興津と由比町の間にある峠)に関する歌

「東道の手児の呼坂越えかねて 山にか寝むも宿りはなしに」

を「紫式部」は知っていて、同じ「呼坂」の名前を持つ「たこの呼坂」に興味を持ったのではないかとしています。

因みに「呼坂」とは、野辺で働く彼女に今夜遊びに行くと言う「夜這い(よばい)」の合図を交わしたところだそうです。

なお、「越前国府」から「たこの呼坂」に至るルートについては、このブログの過去の記事
番外編 滅び行く古代からの道」をご参照ください。

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2008年2月 9日 (土)

番外編 「紫式部」と「「雪」

Img_6446 今から約千年余り前に、「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府へ下向しました。

のちに「紫式部」が自ら詠んだ歌を集めたと言われる「紫式部集」には、越前国府で詠んだと見られる歌が記されています。

この中で

降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて
「なほ、これ出でて見たまへ」といへば

ふるさとに かへるの山の それならば 
               心やゆくと ゆきも見てまし


と詠んでいます。

内容は、雪の日が続き、うっとうしくうんざりと思っている雪を、皆は雪掻きをして山のようになったところに登って
「雪がおいやでも、この雪山を縁側に出て御覧なさいませ」と誘っているので

「故郷の都へ帰るという名のある鹿蒜(かえる)山の雪の山なら、気が晴れるかと出かけて行って見もしましょうが」

(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」 参照)

と応えたというようなことだそうです。

都で育った「紫式部」にとって、雪に閉ざされる越前の冬はゆうつな日々であったようです。

さて、この歌の中に登場する「かえる山」は「越前国府」と「敦賀」の間にある山地で、昔の「鹿蒜(かえる)村」一帯(現在の南越前町南今庄地域)の山の総称だといわれています。
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この一帯の山中には官道「北陸道」にある「木ノ芽峠」や古北陸道にある「山中峠」などがあり、都に帰るときにはこれらの峠を通ったようです。

現在でも「JR北陸本線」や「北陸自動車道」はこの一帯の山地を通過しています。

なお、平安時代の気候は前半までが中世温暖期(8世紀から10世紀)にあたり、後半から徐々に寒くなってきたと推測されているようなので、現在より少し寒かったかも知れません。
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2008年2月 3日 (日)

番外編 「紫式部」と「越前国府」続編(1)

平安時代中期の長徳2年(996年)に結婚前の「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府が在った「たけふ」の地に下向しました。

Img_4297 国府が在った「たけふ」の地は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近だと言われています。
しかし、国府遺構が発見されていないためにどこの場所に存在したか判明していません。

「たけふ」の地は律令制が崩壊して国府も衰退しましたが、貴族に代わって武士の時代になっても「守護所」が置かれて越前国の政治・経済の中心地として発展したそうです。

江戸時代に入り、越前国の中心地は「福井」に移りましたが、徳川家康の信任が厚い「本多富正」が「府中」と呼ばれていた「たけふ」周辺を治めて、街づくりに努めたために衰退することはありませんでした。

この間、幾度かの戦乱に見舞われました。
しかし、国府を中心に発展した街は戦国時代末期から江戸時代初期に一部造りかえられましたが今日まで続いているそうです。

さて、国府の所在地については街の中心を南北に通る「北陸道」や周辺河川と寺社地を基に諸説が提唱されています。



土塁が残る「正覚寺」(新善光寺城跡)を国庁跡とする「藤岡謙二郎」説
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「正覚寺」を国庁跡として初期の北陸道が「河濯川」付近沿いに北陸道が通っていたとする「真柄甚松」説


境内の東側に堀跡と想定される溝がある「本興寺」を国庁跡とする「斎藤 優」説
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北府(きたご)町付近に国庁跡があったとする「水野時二」説


などの幾つかの説が提唱されています。

なお、「総社」は現在地から南東約300mにある「公会堂記念館」付近に在ったと言われています。

これらの推定地については、武生市教育委員会が発行している「武生の歴史」の越前国府の推定位置図(「都市地理学の諸問題」大明堂発刊の金坂清則作成の地図より作図)を参考にした下記地図をご参照ください。

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