継体天皇についての伝承・福井県(1)
福井県内には、継体天皇に関する伝承が数多く残っています。
日本書紀に拠れば、継体天皇は近江国高島郡三尾で生まれましたが、幼くして父親を亡くして母親の里である越国坂井郡高向で暮らしていました。名前は「ヲホド」と呼ばれていました。
また母の名前は「振姫」といい、隣の江沼郡を本拠地とする豪族「江沼氏」との間に生まれた娘です。
5世紀頃の坂井郡は大部分が九頭竜川の氾濫域で多くの川や沼や湿地帯があり、九頭竜川河口付近は大きな湖になっていたようです。
この九頭竜川の河口を開き、氾濫を抑える堰を作り、稲作に適した水田に変えていったのが「ヲホド」だと伝承されています。 また、足羽山(福井市)にある継体天皇が弓を持って立っている像は、夏のある日、堰を造るために働いていた人たちが飲み水が無くて困っていたところに「ヲホド」が出会し、自分の弓で岩を叩いて水を湧き出させたという伝承をもとに創られたと言われています。
なぜ「ヲホド」がこのような治水事業を行えたかと言えば、それには朝鮮半島からの渡来人の活躍があったようです。
越国は日本海に面し、九州や出雲などと同様に古くから朝鮮半島との交流があり、多くの渡来人がやって来て定住していたと想像されます。
そして一説には、これらの伝承が三尾氏の祖先である「磐衝別(イハツクワケ)」の伝承で、「磐衝別」を祀る羽咋神社がある能登や加賀地方にも類似した伝承があるそうです 。
因みに、足羽山(福井市)にある「足羽神社」(継体天皇を祀る)の宮司である「馬来田(まくだ)家」は継体天皇の皇女「馬来田皇女」を祖先とすると伝わっているそうです。
それから、東尋坊(坂井市三国)の近くにある「雄島」には「大湊神社」があり、「磐衝別」を祀っています。昔は「御雄島(みおしま)」と呼ばれ三尾氏に関係が深い島です。
そして、坂井郡から約30キロ南にある越前の国府が置かれた「武生」の東部にある味真野地域にも継体天皇に関する伝承が残っています。
なぜ、この地に伝承や継体天皇ゆかりの人たちを祀った神社があるのかについては諸説があります。
一説に寄れば、世阿弥の作った謡曲「花筐(はながたみ)」が有名になったので、後になって作られたと言う説もありますが、元になった伝承があった(「炭焼き小五郎」などの話に類似した物)とも言われています。
また、近くには「粟田部(あわたべ)」という地名があり、これは継体天皇の名前「ヲホド」を表し、「ヲホド部」が変化した地名であるという説があります。
その他にも味真野地域につながる「日野山」及び「日野神社」には継体天皇とその子の安閑・宣化天皇が祀られているほか、この地域にはゆかりの地と伝承されている所や神社が多く存在します。
なお、謡曲「花筐(はながたみ)」のあらすじをご紹介しましょう。
主人公の照日の前(てるひのまえ)が大迹部(おおあとべ)の皇子(後の継体天皇)と味真野で幸せに暮らしていました。
ある日、照日の前が遠くへ出かけていたときに都から天皇が亡くなられたので次の天皇に即位してほしいと言う使者がやって来ました。
皇子は急いで都に上らなくてはならなくなり、照日の前に会わずに手紙と竹で作った花籠を残して都に旅立ちました。
残された照日の前は、毎日のように皇子を想うあまりに何時しか物狂いして手紙と花籠を持って故郷を離れます。
皇子は即位して天皇となり玉穂宮に暮らしていました。
ある秋の日、紅葉狩りに出かけた天皇の前に狂ったように舞う女が現れます。
その女は天皇に花籠を差し出します。天皇はその花籠が照日の前に贈った物と判ります。
照日の前は天皇に再会して正気に戻り、二人は幸せに暮らします。
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