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2007年1月30日 (火)

河内馬飼首荒籠について

今から1500年前の507年1月、越国三国へ即位の招請に向かった倭の使者に対して、「男大迹王(をほどのおおきみ)」後の継体天皇は大きな疑念を抱いていた。
この時、「男大迹王」に倭中央政権の内情を伝える使者を送ったのが「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ)」でした。
「河内馬飼首荒籠」と「男大迹王」は以前からの知り合いだったと日本書紀には書かれています。

では「河内馬飼首荒籠」とは、どのような人物だったのでしょうか。
「河内馬飼首荒籠」は河内国に住む「馬飼い」を本業とする伴部の長だったと言われています。また、渡来人との交流も深かったようです。
一説には諜報部員的な仕事も行っていたのではないかとも言われますが詳細は不明です。
また、「日本書紀」に拠れば、「応神天皇」の母「神功皇后」が新羅に出兵して勝利した時に新羅の王が「これからは馬飼いとして仕え、馬の手入れに必要な刷毛や鞭を差し上げましょう。」と言う場面が書かれています。
そして、「応神天皇」の記述の中には「百済の王が良馬2頭と馬飼いとして阿直岐(あちき)と言う人とを贈った。」という事が書かれています。
この様なことや古墳などからの馬具や馬の埴輪の出土状況から、5世紀頃に馬や乗馬の技術が渡来したと言われています。

一般的に「馬飼い」は川や湖の岸辺などの牧草地で馬を飼うのに必要な塩を作る製塩地から近い所で行われていたようです。
河内国では現在の淀川周辺や古代河内湖の沿岸だった四条畷・寝屋川・東大阪や平野周辺などに点在していたそうです。
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この中で「河内馬飼首荒籠」は「樟葉宮」近くの淀川周辺に牧場を持っていた「馬飼」だと言われています。
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枚方市東部の淀川支流「穂谷川」近くにある「藤阪元町」地区周辺では「藤阪南遺跡」が発見され、集落跡の他に継体天皇時代(1500年前)頃の馬屋跡と思われる細長い建物跡と倉庫跡が発見されています。

Fuzisakasyou11 現在、「藤阪小学校」の構内(枚方市藤阪南1丁目)に遺跡の説明板があります。





その他、北河内地域の「馬飼」に関係する代表的遺跡をご紹介しましょう。

Naraiiseki11 「奈良井遺跡」
大阪府四条畷市中野3丁目
(四条畷市総合センター)
馬の骨や祭具など牧での祭事を行った跡が見つかった


Sitomiyaato11 「蔀屋(しとみや)北遺跡」
大阪府四條畷市蔀屋
(なわて水環境保全センター建設現場)
馬の伝来を思わせる、外洋を航海したと見られる大型船の廃材を使用した井戸や馬具が発見された。

出土品の一部は「四条畷市立民俗資料館」(四条畷市塚脇町3の7)に展示されています。


また、「日本書紀」の継体天皇に関する記述に登場する「河内馬飼首御狩(かわちのうまかいのみかり)」の本拠地とされる「母樹(おもき)」は現在の東大阪市豊浦町付近とされています。

所在地については下記地図をご参照ください。

「藤阪南遺跡説明板」(藤阪小学校)
大阪府枚方市藤阪南1丁目
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「奈良井遺跡」(四条畷市総合センター)
大阪府四條畷市中野3丁目
「蔀屋北遺跡」(なわて水環境保全センター建設現場)
大阪府四條畷市蔀屋
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2007年1月26日 (金)

男大迹王 倭の使者と会見

今から1500年前の西暦507年1月6日に天皇への即位を招請する使者は越国三国(現在の福井県坂井市)へ向かいました。
「男大迹王(をほどのおう)」(後の継体天皇)は侍臣を整列させて倭からの使者を迎えましたが、天皇への招請にはすぐには応じませんでした。
「男大迹王」は招請に対して疑念をもっていました。
しかし、たまたま知っていた「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)」から密かに使者が来て、倭政権の事情を伝えた事から招請を受けることとなりました。
そして、1月12日に樟葉宮(現在の大阪府枚方市楠葉 交野天神社)に着いたと日本書紀に書かれています。

Tennoudu1_2 現在、福井県坂井市丸岡町女形谷には「男大迹王」の宮があったと言い伝えられ、「天皇堂」と呼ばれるお堂の跡があります。
ここが会見の場所と言い伝えられ、「男大迹王」が座ったと言われる腰掛け石があります。


Yokoyamazinnzya1_2 また、近くの坪江地区には継体天皇を祀る「横山神社」があります。





Wankasiyama11 その他、この周辺には「わんかし山古墳」の他に山稜に古墳が点在しており「横山古墳群」と呼ばれています。




因みに、福井県坂井市丸岡町から大阪府枚方市までの約200キロあり、徒歩で向かったとすると6日ぐらいの日程が必要となります。
また、馬を使用したのであれば、日本在来馬で時速30キロぐらいで走るそうなので1日か2日程度で到着したのかも知れません。

福井県坂井市丸岡町周辺の継体天皇関連史跡については下記の地図をご参照ください。

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倭彦王について

日本書紀によれば、今から1500年前の西暦506年12月21日、第25代武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇を選ぶ合議が開かれました。
大連「大伴金村」および大連「物部麁鹿火」と大臣「許勢男人」たちによる合議の結果
「丹波国桑田郡に住む、第14代仲哀天皇の5世の孫 倭彦王(やまとひこのおおきみ)」が指名されました。
そして輿を守る兵士と一緒に使者を丹波国へ向かわせましたが、「倭彦王」は物々しい兵士を見て驚き、山中に逃げて行方知れずになってしまったと書かれています。

「倭彦王」については、継体天皇の皇位継承を正当化する為の虚偽で実在しない架空の人物ではないかと言う説が在ります。

Kameokaheiya11 しかし、「倭彦王」が住んでいたと言われる丹波国桑田郡、現在の京都府亀岡市および南丹市周辺の亀岡盆地は、大堰川を挟んで縄文時代以降の遺跡が数多く点在し、また多くの古墳も存在します。



Kameokaizumozinzya11 また、この付近には丹波一之宮「出雲大神宮」があり、一説には日本海側から移住してきた出雲系の豪族が住んでいたのではないかと言われています。



Titosekurumaduka11 このような地域の中で、亀岡市千歳町に在る「千歳車塚古墳」は5世紀末期か6世紀初頭の前方後円墳と言われ、南丹波地域を代表する最高首長の墓ではないかと考えられています。
一説にはこの古墳が「倭彦王」の墓ではないかとも言われ、この地域にも力のある王族が住んでいたのではないでしょうか。

所在地については下記地図をご参照ください。

JR山陰本線
「千代川駅」下車東へ約2キロ

国道9号線
「千原交差点」から府道73号東へ約2キロ

京都縦貫自動車道
「千代川」インター東へ約3キロ

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2007年1月23日 (火)

王を迎える使者 「三国」へ向かう

日本書紀によれば、今から1500年前の西暦506年12月21日、第25代武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇を選ぶ合議が開かれました。
大連「大伴金村」および大連「物部麁鹿火」と大臣「許勢男人」たちによる合議の結果
「丹波国桑田郡に住む、第14代仲哀天皇の5世の孫 倭彦王(やまとひこのおおきみ)」を指名した。
そして輿を守る兵士と一緒に使者を丹波国へ向かわせました。
しかし、倭彦王は物々しい軍勢を見て驚き山中に逃げて行方知れずになってしまった。

そこで、年が明けた西暦507年1月4日、2回目の合議が開かれ、
「越国三国に住む、第15代応神天皇の5世の孫 男大迹王(おほどのおおきみ)」を指名した。
1月6日、連や臣らに君命を受けた印の旗と王が乗る輿を準備して越国三国へ使者を向かわせました。
以上のような事が書かれています。
これが、1500年前に起きた、「武烈天皇」が崩御されてから「継体天皇」が即位する前までの倭政権内部の様子です。

さて、「男大迹王」を迎えに「越国三国」へ向かった使者はどのような道筋を辿って「三国」へ行ったのでしょうか。

Izumo12zinzya11_1 武烈天皇の宮は三輪山の麓、初瀬川沿いの谷にある「泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)」(桜井市出雲 十二柱神社付近)です。



ここから使者は出発して、三輪山沿いに谷を西へ下り、「金屋」付近で古代道「山辺の道」に入ります。
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Biwakokoseikesiki22 山沿いに北上して「宇治川」を渡り、「山科」から「逢坂山」を越えて琵琶湖西岸(船を使った可能性もある)を進み継体天皇の生まれ故郷「三尾」に至ります。


この先の「安曇川」を渡った付近で険しい山道を避けて若狭国へ迂回して「熊川」を経て三方五湖沿いを進み「美浜」から「関峠」を越えて「越国」へ入ります。

Takamukuzinnzya1_3 さらに海沿いに「敦賀」「五幡」「元比田」を経て「中山峠」を越えて「今庄」「味真野」から福井平野東部の山沿いを通り「坂井」の「高向」へ辿り着いたのではないかと推測します。
行程は6日から7日程度と想像します。

因みに江戸末期、越前藩主「松平春嶽」が書いた「登京日記」には「福井」から「京都」まで琵琶湖東岸を通る「北国街道」を通って5日の行程であったと書かれていますが、途中で「外国人」との接触を避ける為に日程を遅らせているので正味4日の行程と考えられます。

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2007年1月20日 (土)

許勢男人について

日本書紀に拠れば、506年12月21日に武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇の招請についての合議が開かれたと書かれています。
合議の主なメンバーとして
大連 「大伴金村」
大連 「物部麁鹿火」
大臣 「許勢男人」
の三人の名前が日本書記には書かれています。

ここで合議に参加した「許勢男人(こせのおひと)」についてご紹介しましょう。

大臣「許勢男人」は古代新興豪族「巨勢氏」の出身で奈良県御所市古瀬周辺を本拠地としていました。

「巨勢氏」は武内宿禰の子「許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)」を祖とする一族だそうです。
また一説には古代最大の豪族「葛城氏」の系譜につながる一族とも言われています。

大臣「許勢男人」については「古事記」にその名前が見えないことなどから存在が疑問視されていますが、欽明天皇の時に「許勢臣」の名前が見えることから6世紀以後栄えた豪族だと推測されます。

Itiohakayamakofun11 現在、奈良県高取町市尾のある「市尾墓山古墳」は6世紀前半の古墳で被葬者として「許勢男人」の名が挙げられています。




Koseziato11 また、奈良県御所市古瀬には巨勢氏の氏寺と言われる「巨勢寺跡」があります。




所在地については下記の地図をご参照ください。

「巨勢寺跡」
JR和歌山線
近鉄吉野線
吉野口駅 北へ約1キロ

「市尾墓山古墳」
近鉄吉野線市尾駅北西約500m

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物部麁鹿火について

日本書紀に拠れば、506年12月21日に武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇の招請についての合議が開かれたと書かれています。
合議の主なメンバーとして
大連 「大伴金村」
大連 「物部麁鹿火」
大臣 「許勢男人」
の三人の名前が日本書記には書かれています。

ここで合議に参加した「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)」についてご紹介しましょう。

大連「物部麁鹿火」は古代有力豪族「物部氏」一族の出身です。
「物部氏」は河内国渋川郡(大阪府八尾市・東大阪市・大阪市周辺)が本拠地と言われ、主に軍事や刑罰の執行など倭政権の軍事面を担当したそうです。その他にも祭祀に関することも行ったようです。
また、「物部氏」は多くの同系同族に別れ、「八十物部」とも言われていたそうです。

日本書紀に拠れば大連「物部麁鹿火」の名前は武烈天皇の即位前に「平群氏」を討つ原因となった「影媛」の父として登場します。
以後、継体・安閑・宣化天皇に仕え、宣化天皇が即位した宣化元年(536年)7月に亡くなったと書かれています。

Isonokamizinzya11 「物部氏」にゆかりの神社は全国にたくさんありますが、奈良県天理市にある「石上神宮」は「物部氏」から改姓した「石上(いそのかみ)氏」が祭事を司っていたと言われています。



Sibukawahaiziato11 また、大阪府八尾市渋川町5丁目にある「渋川天神社」付近は「物部氏」を供養した寺「渋川廃寺跡」とされています。




所在地については下記の地図をご参照ください。

「石上神社」(奈良県天理市布留町384)

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「渋川天神社」(大阪府八尾市渋川町5丁目)
JR八尾駅下車北西約500m

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2007年1月17日 (水)

大伴金村について

日本書紀に拠れば、506年12月21日に武烈天皇の崩御に伴い、大連の「大伴金村」らによって次期天皇の招請についての合議が開かれたと書かれています。

この合議は大連の「大伴金村」が中心になって行われました。当時の政権運営は天皇と大臣・大連・大夫たちによる合議で物事が決められたようです。
また、天皇の継承についても大まかなルールに従って天皇継承資格者の中から合議によって決められたと言われています。

武烈天皇の崩御に伴う合議の主なメンバーとして
大連 「大伴金村」
大連 「物部麁鹿火」
大臣 「許勢男人」
の三人の名前が日本書記には書かれています。

ここで合議の中心人物で在った「大伴金村」についてご紹介しましょう。

大連「大伴金村」は古代有力豪族「大伴氏」の出身で祖父は雄略天皇の時に大連を務めた「大伴室屋」です。
「大伴氏」は大阪湾岸の摂津・和泉が発祥地と言われ、主に天皇の周辺を警護した武門の家柄です。
「大伴金村」は仁賢天皇の崩御に際し、当時の権力者であった「平群氏」を皇太子と共に討ち滅ぼしました。そして皇太子が即位して武烈天皇になった時に大連となり、政権中枢に進出しました。
以後、継体・安閑・宣化の天皇に仕え、欽明天皇の時代(540年)に朝鮮半島の任那四県割譲の責任を取って住吉へ引退したと日本書紀に書かれています。

Tedukayamakofun11 現在、大阪市住吉区帝塚山には「大伴金村」の館がこの付近にあり、「大伴金村」とその子が葬られた墓が「帝塚山古墳」だと言う伝承があります。
なお、明治時代までは帝塚山地区には「大塚」と「小塚」があり、現在の「帝塚山古墳」は「小塚」にあたり5世紀頃の墓と言われています。
また、昭和初期までは「小帝塚山古墳」が現在の住吉中学校付近にありましたが、詳細は不明です。

また、「大伴金村」を祀った神社は、

Kumedazinzya11 久米田神社
福井県坂井市丸岡町下久米田




Kanemurazinzya112 金村神社
奈良県葛城市大屋(旧新庄町大屋)





金村神社
福岡県田川郡糸田町

などがあります。

所在地については下記の地図をご参照ください。

帝塚山古墳
住吉大社より北に約1キロ
南海電鉄高野線「帝塚山駅」下車西100m

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金村神社(奈良県葛城市大屋)
近鉄新庄駅下車西へ約1.5キロ
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武烈天皇の崩御について

日本書紀に拠れば、今から1500年前の西暦506年12月8日に第25代武烈天皇が崩御されました。
武烈天皇については、日本書紀に素行が悪く書かれていますが、これは継体天皇への継承に正当な理由を作るための偽装だと言われています。

武烈天皇は前代仁賢天皇の子として生まれ、仁賢天皇の崩御によって10歳ぐらいで即位したと言われています。
武烈天皇の宮は泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)と言います。

Izumo12zinzya11 「列城宮(なみきのみや)」は現在の奈良県桜井市出雲にある「十二柱神社」付近い在ったと言われ、神社の境内には武烈天皇を祀った小さな宮と列城宮跡の石碑が建っています。
武烈天皇は8年間在位して18歳で崩御されました。この為に跡継ぎが出来なかったと言われています。

古代の天皇は、大臣・大連などの倭(やまと)政権中枢の豪族の協議と合意によって選ばれたようです。武烈天皇崩御に際しては、大連の「大伴金村(おおとものかなむら)」と「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)」や大臣の「許勢男人(こせのおひと)」たちによって協議が行われたと日本書紀の書かれています。

さて、列城宮の在った桜井市出雲地区は奈良から伊勢へ向かう古代伊勢街道沿いにあり、近くの脇本および黒崎地区付近には雄略天皇の宮跡「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」が在ったと言われています。

Kurosakihakusanzinzya1 現在は黒崎地区の「白山神社」に雄略天皇の歌で始まる「万葉集」を記念しての歌碑が建てられています。




Asakurasyou11 その他、165号線沿いにある「朝倉小学校」では6世紀前半の石積みの溝跡が発見されています。
また、隣の脇本地区にある「春日神社」付近でも建物の跡が発見され、「列城宮」の跡ではないかと言われています。


Hasedera11 なお、出雲地区の隣の初瀬地区には「牡丹」で有名な「長谷寺」が在ります。





所在地については下記の地図をご参照ください。

脇本地区へは
近鉄大阪線
「大和朝倉駅」下車約1キロ
Sakuraitoubutizu11

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