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2007年1月20日 (土)

許勢男人について

日本書紀に拠れば、506年12月21日に武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇の招請についての合議が開かれたと書かれています。
合議の主なメンバーとして
大連 「大伴金村」
大連 「物部麁鹿火」
大臣 「許勢男人」
の三人の名前が日本書記には書かれています。

ここで合議に参加した「許勢男人(こせのおひと)」についてご紹介しましょう。

大臣「許勢男人」は古代新興豪族「巨勢氏」の出身で奈良県御所市古瀬周辺を本拠地としていました。

「巨勢氏」は武内宿禰の子「許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)」を祖とする一族だそうです。
また一説には古代最大の豪族「葛城氏」の系譜につながる一族とも言われています。

大臣「許勢男人」については「古事記」にその名前が見えないことなどから存在が疑問視されていますが、欽明天皇の時に「許勢臣」の名前が見えることから6世紀以後栄えた豪族だと推測されます。

Itiohakayamakofun11 現在、奈良県高取町市尾のある「市尾墓山古墳」は6世紀前半の古墳で被葬者として「許勢男人」の名が挙げられています。




Koseziato11 また、奈良県御所市古瀬には巨勢氏の氏寺と言われる「巨勢寺跡」があります。




所在地については下記の地図をご参照ください。

「巨勢寺跡」
JR和歌山線
近鉄吉野線
吉野口駅 北へ約1キロ

「市尾墓山古墳」
近鉄吉野線市尾駅北西約500m

Koseziato22_1

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