倭彦王について
日本書紀によれば、今から1500年前の西暦506年12月21日、第25代武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇を選ぶ合議が開かれました。
大連「大伴金村」および大連「物部麁鹿火」と大臣「許勢男人」たちによる合議の結果
「丹波国桑田郡に住む、第14代仲哀天皇の5世の孫 倭彦王(やまとひこのおおきみ)」が指名されました。
そして輿を守る兵士と一緒に使者を丹波国へ向かわせましたが、「倭彦王」は物々しい兵士を見て驚き、山中に逃げて行方知れずになってしまったと書かれています。
「倭彦王」については、継体天皇の皇位継承を正当化する為の虚偽で実在しない架空の人物ではないかと言う説が在ります。 しかし、「倭彦王」が住んでいたと言われる丹波国桑田郡、現在の京都府亀岡市および南丹市周辺の亀岡盆地は、大堰川を挟んで縄文時代以降の遺跡が数多く点在し、また多くの古墳も存在します。
また、この付近には丹波一之宮「出雲大神宮」があり、一説には日本海側から移住してきた出雲系の豪族が住んでいたのではないかと言われています。
このような地域の中で、亀岡市千歳町に在る「千歳車塚古墳」は5世紀末期か6世紀初頭の前方後円墳と言われ、南丹波地域を代表する最高首長の墓ではないかと考えられています。
一説にはこの古墳が「倭彦王」の墓ではないかとも言われ、この地域にも力のある王族が住んでいたのではないでしょうか。
所在地については下記地図をご参照ください。
JR山陰本線
「千代川駅」下車東へ約2キロ
国道9号線
「千原交差点」から府道73号東へ約2キロ
京都縦貫自動車道
「千代川」インター東へ約3キロ
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