武烈天皇の崩御について
日本書紀に拠れば、今から1500年前の西暦506年12月8日に第25代武烈天皇が崩御されました。
武烈天皇については、日本書紀に素行が悪く書かれていますが、これは継体天皇への継承に正当な理由を作るための偽装だと言われています。
武烈天皇は前代仁賢天皇の子として生まれ、仁賢天皇の崩御によって10歳ぐらいで即位したと言われています。
武烈天皇の宮は泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)と言います。
「列城宮(なみきのみや)」は現在の奈良県桜井市出雲にある「十二柱神社」付近い在ったと言われ、神社の境内には武烈天皇を祀った小さな宮と列城宮跡の石碑が建っています。
武烈天皇は8年間在位して18歳で崩御されました。この為に跡継ぎが出来なかったと言われています。
古代の天皇は、大臣・大連などの倭(やまと)政権中枢の豪族の協議と合意によって選ばれたようです。武烈天皇崩御に際しては、大連の「大伴金村(おおとものかなむら)」と「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)」や大臣の「許勢男人(こせのおひと)」たちによって協議が行われたと日本書紀の書かれています。
さて、列城宮の在った桜井市出雲地区は奈良から伊勢へ向かう古代伊勢街道沿いにあり、近くの脇本および黒崎地区付近には雄略天皇の宮跡「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」が在ったと言われています。 現在は黒崎地区の「白山神社」に雄略天皇の歌で始まる「万葉集」を記念しての歌碑が建てられています。
その他、165号線沿いにある「朝倉小学校」では6世紀前半の石積みの溝跡が発見されています。
また、隣の脇本地区にある「春日神社」付近でも建物の跡が発見され、「列城宮」の跡ではないかと言われています。 なお、出雲地区の隣の初瀬地区には「牡丹」で有名な「長谷寺」が在ります。
所在地については下記の地図をご参照ください。
脇本地区へは
近鉄大阪線
「大和朝倉駅」下車約1キロ
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