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2007年1月23日 (火)

王を迎える使者 「三国」へ向かう

日本書紀によれば、今から1500年前の西暦506年12月21日、第25代武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇を選ぶ合議が開かれました。
大連「大伴金村」および大連「物部麁鹿火」と大臣「許勢男人」たちによる合議の結果
「丹波国桑田郡に住む、第14代仲哀天皇の5世の孫 倭彦王(やまとひこのおおきみ)」を指名した。
そして輿を守る兵士と一緒に使者を丹波国へ向かわせました。
しかし、倭彦王は物々しい軍勢を見て驚き山中に逃げて行方知れずになってしまった。

そこで、年が明けた西暦507年1月4日、2回目の合議が開かれ、
「越国三国に住む、第15代応神天皇の5世の孫 男大迹王(おほどのおおきみ)」を指名した。
1月6日、連や臣らに君命を受けた印の旗と王が乗る輿を準備して越国三国へ使者を向かわせました。
以上のような事が書かれています。
これが、1500年前に起きた、「武烈天皇」が崩御されてから「継体天皇」が即位する前までの倭政権内部の様子です。

さて、「男大迹王」を迎えに「越国三国」へ向かった使者はどのような道筋を辿って「三国」へ行ったのでしょうか。

Izumo12zinzya11_1 武烈天皇の宮は三輪山の麓、初瀬川沿いの谷にある「泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)」(桜井市出雲 十二柱神社付近)です。



ここから使者は出発して、三輪山沿いに谷を西へ下り、「金屋」付近で古代道「山辺の道」に入ります。
Yamamobenomiti11_1















Biwakokoseikesiki22 山沿いに北上して「宇治川」を渡り、「山科」から「逢坂山」を越えて琵琶湖西岸(船を使った可能性もある)を進み継体天皇の生まれ故郷「三尾」に至ります。


この先の「安曇川」を渡った付近で険しい山道を避けて若狭国へ迂回して「熊川」を経て三方五湖沿いを進み「美浜」から「関峠」を越えて「越国」へ入ります。

Takamukuzinnzya1_3 さらに海沿いに「敦賀」「五幡」「元比田」を経て「中山峠」を越えて「今庄」「味真野」から福井平野東部の山沿いを通り「坂井」の「高向」へ辿り着いたのではないかと推測します。
行程は6日から7日程度と想像します。

因みに江戸末期、越前藩主「松平春嶽」が書いた「登京日記」には「福井」から「京都」まで琵琶湖東岸を通る「北国街道」を通って5日の行程であったと書かれていますが、途中で「外国人」との接触を避ける為に日程を遅らせているので正味4日の行程と考えられます。

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