大伴金村について
日本書紀に拠れば、506年12月21日に武烈天皇の崩御に伴い、大連の「大伴金村」らによって次期天皇の招請についての合議が開かれたと書かれています。
この合議は大連の「大伴金村」が中心になって行われました。当時の政権運営は天皇と大臣・大連・大夫たちによる合議で物事が決められたようです。
また、天皇の継承についても大まかなルールに従って天皇継承資格者の中から合議によって決められたと言われています。
武烈天皇の崩御に伴う合議の主なメンバーとして
大連 「大伴金村」
大連 「物部麁鹿火」
大臣 「許勢男人」
の三人の名前が日本書記には書かれています。
ここで合議の中心人物で在った「大伴金村」についてご紹介しましょう。
大連「大伴金村」は古代有力豪族「大伴氏」の出身で祖父は雄略天皇の時に大連を務めた「大伴室屋」です。
「大伴氏」は大阪湾岸の摂津・和泉が発祥地と言われ、主に天皇の周辺を警護した武門の家柄です。
「大伴金村」は仁賢天皇の崩御に際し、当時の権力者であった「平群氏」を皇太子と共に討ち滅ぼしました。そして皇太子が即位して武烈天皇になった時に大連となり、政権中枢に進出しました。
以後、継体・安閑・宣化の天皇に仕え、欽明天皇の時代(540年)に朝鮮半島の任那四県割譲の責任を取って住吉へ引退したと日本書紀に書かれています。
現在、大阪市住吉区帝塚山には「大伴金村」の館がこの付近にあり、「大伴金村」とその子が葬られた墓が「帝塚山古墳」だと言う伝承があります。
なお、明治時代までは帝塚山地区には「大塚」と「小塚」があり、現在の「帝塚山古墳」は「小塚」にあたり5世紀頃の墓と言われています。
また、昭和初期までは「小帝塚山古墳」が現在の住吉中学校付近にありましたが、詳細は不明です。
また、「大伴金村」を祀った神社は、
金村神社
奈良県葛城市大屋(旧新庄町大屋)
金村神社
福岡県田川郡糸田町
などがあります。
所在地については下記の地図をご参照ください。
帝塚山古墳
住吉大社より北に約1キロ
南海電鉄高野線「帝塚山駅」下車西100m
金村神社(奈良県葛城市大屋)
近鉄新庄駅下車西へ約1.5キロ
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