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2007年2月23日 (金)

継体天皇の故郷で講演会開催

今から千五百年前に天皇に即位した「継体天皇」の生まれ故郷「滋賀県高島市」で明日2月24日土曜日に講演会が開催されます。(入場無料)

講演会は「謎の大王 継体天皇を探る」と題して龍谷大学講師の「水谷千秋」先生によって午後2時から4時まで開催されます。

場所は国道161号線沿いにある「道の駅 藤樹の里 あどがわ」横にある「藤樹の里文化芸術会館」(高島市安曇川町上小川106)です。(所在地は高島市のホームページから「藤樹の里文化芸術会館」を参照してください。)

講師の水谷千秋先生は、「継体天皇と古代の王権」や「謎の大王 継体天皇」の著書で多方面的に継体天皇を研究している方だそうです。

考古学者の古墳や発掘物などの少々解り難い話と違って、国学や歴史学的観点から「古事記」・「日本書紀」・「上宮記」などの中の継体天皇に関する記述に対する読み解き方を中心に講演されるのではないかと思います。

Takasimatanakazinzya22_1 Takasimausiou11_2





「三尾氏」を祀る「田中神社」や神社の上にある父「彦主人王」の陵墓とされる古墳などの継体天皇ゆかりの史跡を散策した後で講演会に参加するのも有意義ではないでしょうか。

古墳は雑草が枯れていて葺石の状況も見やすいこの時期が見ごろだと思います。



高島市内の継体天皇ゆかりの地については下記の地図をご参照ください。

または、JR西日本が開設しているホームページの「滋賀を歩こう」中の「安曇川駅」をご参照ください。

時間が在れば過去のブログ記事「古代歴史ロマンへの旅 安曇川」もお読みください。


Takasimatizu32_1

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2007年2月21日 (水)

継体天皇異伝  剣神社盛衰記

杉原丈夫氏の編纂による「越前若狭の伝説」の中には、継体天皇に関わる伝説も数多く収められています。

Turugizinzya22 中でも福井県越前町織田にある「剣神社」に伝わる「剣神社盛衰記」に書かれていたと言われる継体天皇の伝説は「日本書紀」のものとは大きく異なっています。


内容は下記のようなものです。

仁賢天皇の皇后はたぐいまれな美女でした。
右大将の武烈は、皇后に横恋慕して仁賢天皇を罠に落として退位させ、天皇に即位しました。

仁賢天皇の子供を宿していた皇后は、武烈の意に従わなかったので武烈に足を板で打たれました。
この足の傷に黒い羽がはえたので、後世にこの皇后を「足羽の宮」と呼んだそうです。

そして皇后は丸木船に乗せられて湖に流され、越の国に着きました。そこで炭焼きをする「藤太」に助けられて子供を産みました。
この皇子が後の継体天皇です。

さて、皇子が6歳の時に母子は金色の布を振りながら都に上りました。そして噂を聞いた仁賢は皇子と対面しました。

しかし、皇后は対面できずに越の国へ戻って炭焼き小屋跡に宮を建てました。この場所が今の「足羽の宮」(足羽神社)です。

以上のような内容だそうです。

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2007年2月20日 (火)

継体天皇外伝  佐山姫と薄墨桜

福井県越前市粟田部地域には千五百年前に「樟葉宮」で即位した第26代「継体天皇」に関わる「美しい姫」と「薄墨桜」の伝承が残っています。

地名の「粟田部」は「男大迹王(継体天皇)の民」を表す「男大迹(をほど)の部」から由来すると言われています。

Awatabe15 越前国の寺社や古跡について書かれた江戸時代の書籍「帰雁記」には、「佐山」という地には青年皇子「男大迹王(のちの継体天皇)」の御所があり、この地にあった「佐山寺」は「男大迹王」が愛した美しい娘「佐山姫」の菩提所だと言うような話が書かれています。

また、ある伝承では「男大迹王」はこの地にあった桜を好んで大切にしていましたが、思いがけず即位する事になり、都に向かわれるときに妃の「玉照姫」に「形見」としてこの桜の木を贈りました。
いつしか人々はこの桜を「形見の花」と呼ぶようになり、俗世に染まるのを恐れて谷の奥に植え替えられました。
そして時が経つにつれて花の色が薄くなったので「薄墨の桜」と言うようになったと言い伝わっています。これが現在の「三里山」中腹にある「薄墨桜」だそうです。


ここで「薄墨桜」に会いに行くルートをご紹介しましょう。

Awatabe12 「三里山(行司岳)」の麓にある「岡太神社」或いは「佐山姫公園」の駐車場から境内或いは園内を抜けて5分ぐらい歩きます。




Awatabe13 「岡太神社」に隣接した桜の名所「花筺(かきょう)公園」に着きます。





Awatabe14 (公園の案内地図が設置されていますからコースを確認してください。)
公園内の遊歩道をさらに登り「琴弾山展望台」(徒歩10分・駐車場有り)に到着します。



Awatabe41 ここから階段状の細い山道を登っていきます。





Awatabe16_1 (山道は未舗装でぬかるんでいる所もあります。ハイヒールなどは禁物です。)




Awatabe17 展望台から15分程行くと「孫桜」と言われる古木の桜に着きます。





Awatabe42 さらに階段状の山道を5分程登ると小さな展望台が見えてきます。目的地はすぐそこです。
一端、「薄墨桜」の下の山道を通り、山腹にある小さな展望台に向かいます。


Awatabe18 「展望台」からはゆっくりと急峻な山腹にそそり立つ「薄墨桜」を眺めることが出来ます。




なお、桜の開花時期には交通規制が実施され非常に混雑します。通常は「花筺(かきょう)公園」から徒歩30分ぐらいで到達しますが1時間ぐらい掛かるときもありますのでご注意ください。(上記写真は2月20日現在のものです。)

所在地については下記の地図をご参照ください。

「花筺(かきょう)公園」
北陸自動車道武生インターから車で約10分

バス
福井鉄道 南越線 和紙の里行き
「JR武生駅前」バス停より「花筺公園口」下車
徒歩5分

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2007年2月18日 (日)

継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう)

第26代継体天皇の出生については、「日本書紀」の中に書かれています。
しかし、「日本書紀」とは異なる出生の伝承が書かれた資料がありました。

それは「真清探當證(ますみたんとうしょう)」と言う資料です。
この資料には「継体天皇」が「雄略天皇」の皇位継承の際に殺された「市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)」の子供で後の「第23代顕宗天皇」になった「弘計王(をけのみこと)」の子供として生まれたと書かれています。

この「真清探當證」のあらすじは、「小椋一葉氏」に拠れば次のようなものです。

後の雄略天皇は帝が殺された事をいち早く知り、皇位継承の邪魔になる皇子たちを抹殺しようと計画し実行しました。
そして、この難を逃れたのが「市辺押磐皇子」の子供「億計王(おけのみこと)」と「弘計王(をけのみこと)」の兄弟と「市辺押磐皇子」を頼って逃れてきた「彦主人王(うしのみこと)」でした。
Masumidazinzya11 「市辺押磐皇子」の家臣の計らいで3人は難を逃れて「市辺押磐皇子」妃の兄にあたる葦田(あしだ)氏が神主を務める尾張の「黒田神社(真清田神社のこと)」に身を潜めることになりました。
そして時が流れて「彦主人王」の後を追って来た娘「豊姫」と「弘計王」の間に子供が生まれました。この子供が後の継体天皇になる「男大迹王(をほどのみこと)」です。
Neo21 「男大迹王」は生後45日で災いを避けるために「草平とおなみ」夫婦に預けられ、山奥の「根尾村」で密かに暮らすこととなりました。



月日が過ぎて「雄略天皇」が亡くなり、二人の皇子は「清寧天皇」により都に迎えられ、「清寧天皇」が亡くなった後、弟の「弘計王」が即位して続いて兄の「億計王」が天皇に即位しました。

根尾村で暮らしていた「男大迹王」は「草平とおなみ」夫婦の娘「目子姫」と結ばれ二人の皇子を産みました。
そして父の「弘計王」が亡くなり、「億計王」が即位するときに都に呼び寄せられました。
Neousuzumisakura22 (このとき、別れを惜しんで植えた桜の木が根尾村に伝わる「根尾のうすずみ桜」だと言われています。)



以上の様に「日本書記」に継体天皇の父と母で登場する「彦主人王」と「振姫」は、ここでは父「彦主人王」と娘「豊姫」として登場しています。

Neo22 また、乳母「おなみ」対しても別れを惜しんで桜の木が贈られたそうです。
その桜は「根尾」から「尾並峠」を越えて「塩後」地区(山県市葛原塩後)の「乳児の森公園」に「おなみ桜」として守り伝えられています。


Neo24 なお、「おなみ桜」の近くに小さな祠と三つの岩があり、「乳児神社」と言われ「乳房の神」として祀られているそうです。ご神体の岩を触ると母乳がたくさん出るようになると言い伝えられています。



この「真清探當證」およびその著者についての考察の詳しい内容は「小椋一葉氏」が書いた「継体天皇とうすずみ桜」(河出書房新社)を読んでください。

「小椋一葉氏」に拠ると、この資料は昭和初期頃に愛知県一宮市に住んでいた「土田氏」が書いたものらしいのです。
しかし、この資料の元になった古い伝承や古文書が在ったというのです。
「土田氏」は愛知県一宮市にある尾張一之宮「真清田神社」に関わりのある家柄だったようです。
また、「真清田神社」には「真清探桃集(ますみたんとうしゅう)」と言う古文書が在ったといい、この古文書は江戸時代に神社の神職に拠ってもっと古い資料に基づいて書かれたもののようです。
その他、「真清田神社」の周辺には、「弘計王」と「億計王(おけのみこと)」の二人の兄弟皇子についての伝承が伝わっているそうです。

「真清探當證」に書かれている「継体天皇」が隠れ住んだと言われる「根尾村」(現在は合併して岐阜県本巣市)は越前(福井県)とも「温見峠」で繋がり、継体天皇の父方の祖母の故郷「武儀郡」にも接しているところにあります。
また「真清田神社」も尾張の一之宮として古くから何だかの社があったことや継体天皇の妃、尾張氏出身の「目子姫」との関係などから考えると古くから「継体天皇」或いは「安閑・宣化天皇」に繋がる伝承があったのかも知れません。

所在地については下記の地図をご参照ください。

「真清田神社」
愛知県一宮市真清田1丁目2の1
JR尾張一宮駅・近鉄一宮駅から徒歩10分

Masumidazinzyatizu1
















「根尾薄墨桜」
岐阜県本巣市根尾板所
樽見鉄道樽見駅から徒歩10分

「おなみ桜」
岐阜県山県市葛原塩後
根尾薄墨桜より約10キロ

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継体天皇と古事記

今から1500年前に即位したと言われる「継体天皇」のについては日本の古代の正史「日本書紀」の中に記述がありますが「日本書紀」より前に完成した最古の歴史書と言われる「古事記」の中にもその記述を見ることが出来ます。

「古事記」には「武烈天皇」が亡くなった記述の後に「皇位を継ぐ王が居なかったので、応神天皇の五世の孫、袁本杼命(をほどのみこと)を近江国から呼び迎えて、手白髪命(たしらかのみこと)と見合わせて即位した」と即位について簡単にしか書かれていません。

これは神武天皇から推古天皇までが綴られている「古事記」の中で、終盤の比較的新しい「仁賢天皇」以降は天皇に関する最小限の記述しか書かなかったからだと言われています。

また、継体天皇の妃については
1 三尾氏らの祖出身の若比売(わかひめ)
2 尾張連らの祖出身の凡連(おほしのむらじ)の妹、目子郎女(めこひめ)
3 仁賢天皇の御子、手白髪命(てしらかのみこと)
4 息長真手王の女、麻組郎女(まくみのひめ)
5 坂田大俣王の女、黒比売(くろひめ)
6 三尾君加多夫の女、倭比売(やまとひめ)
7 阿部之波延比売(あべのはえひめ)
以上の7名の妃の名前と子供たちの名前が書かれています。
(日本書紀には9名の妃の名前が書かれています。)

その他、天皇に従わなかった石井(いわい)を物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連と大伴金村(おおとものかねむら)連の二人を遣わして殺したと書かれています。

そして継体天皇は43歳で亡くなったと書かれ、注釈文として丁未の年(527年)4月9日に亡くなったと書かれています。
古事記の崩御年と年齢から考えると、日本書紀に書かれている即位時には23歳の青年だったことになります。

「古事記」は天武天皇の命令で「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が口伝えに覚えた歴代天皇や豪族の伝承を711年になってから元明天皇が「太安万侶(おおのやすまろ)」に書きまとめさせて712年に完成したものです。

「日本書紀」は年代を記して年代順に事柄を記述する「編年体」で書かれているのに対して、「古事記」は歴代天皇についての言い伝えを物語風に記述した「紀伝体」という形態で書かれているそうです。

また、「神話」の記述が全体の三分の一を占めていることや古代の「歌謡」も多く書かれていることも「日本書紀」と違うところだそうです。

「古事記」は他の古文書に編纂についての記述が無い上に南北朝以後の写本しかなく「偽書」ではないかと言われた時期も在りましたが、編纂者「太安万侶」の墓誌が奈良市此瀬町の茶畑で見つかったことから信憑性が高まりました。

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2007年2月14日 (水)

古代の気候と継体天皇

今から1500年前の旧暦2月4日に「樟葉宮」で第26代継体天皇が即位しました。

「暦」は5世紀後半に中国から伝わりました。
この頃の「暦」は「太陰太陽暦」で、明治の初めまで日本でも使われていました。

正月は大寒を過ぎた後の新月の日とされていたようです。
現在では「1月21日から2月21日までの間の新月の日」で、年によって約1ヶ月も違ってきます。

さて、近年の「泥炭層のボウリング調査」や「木の年輪の間隔」・「海水面の高さの跡の研究」などから古代の気候の様子が解ってきました。

それによると継体天皇が生きていた5世紀後半から6世紀前半は寒い気候で鎌倉時代の後半から室町時代の初め頃、南北朝時代の気候より少し寒い気候だったようです。
因みに平安時代が一番最適な気候だったと言われています。

時代はすこし後になりますが、豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」は旧暦の3月15日でした。

この様なことから「継体天皇」が即位した旧暦2月4日は「啓蟄」頃にあたりますが、「春」と言っても相当寒かったのではないかと想像します。(因みにこの日は「大安」でした。)

なお、継体天皇が即位した日は現在のグレゴリオ暦で計算すると「西暦507年3月5日」にあたるそうです。

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2007年2月12日 (月)

建国記念日と継体天皇

2月11日は建国記念日です。
また2月4日は継体天皇が「樟葉宮」で即位した日です。

これらの月日の根拠になっているものは、古代日本の正史書「日本書紀」です。
「日本書紀」は7世紀後半「天武天皇」の発願によって編纂が始まったとされ、当時手に入った国内外の各種の書物を参考にして創られたと言われています。

「日本書紀」は天と地が生まれる時からの物語に始まり、天孫降臨から百七十九万二千四百七十余年後の紀元前665年頃に後の「神武天皇」が東征を決意して4年後に河内国に入り、紀元前660年に橿原宮で初代天皇として即位して以後の歴史を歴代天皇に関わる事を中心に年代を記して順に述べられています。

「日本書紀」については「国学」が盛んになった江戸時代以降、活発に論議が繰り返されて研究も進んできました。

この中で「日本書紀」に使われている「暦(こよみ)」についても研究が進み、第20代「安康天皇」前後の記述を境にして古代中国から伝わった「儀鳳暦(ぎほうのこよみ)」と「元嘉暦(げんかのこよみ)」という二つの暦が使われていることが判ってきました。

そして驚くことに初代「神武天皇」から第19代「允恭天皇」頃までの前半に使われている「儀鳳暦(ぎほうのこよみ)」は「安康天皇」以後の後半部分に使われている「元嘉暦(げんかのこよみ)」よりも新しい暦であり、編纂が始まった頃に使われた当時最新の「暦」であることが判ってきました。

この事から日本に「暦」が伝わった5世紀後半以後の「元嘉暦」が記された資料とそれ以前の「暦」による年代が記されていない資料を元に「日本書紀」が編纂されたのではないかと言われています。

さらに驚くことに、年代のはっきりしなし部分は百済などから伝わった資料を元にして辻褄が合うように年代を創作したと言うのです。

さらにさらに驚くことに初代「神武天皇」の即位年は、編纂当時の最新の暦「儀鳳暦」の基本となる「総法1340」という周数(周期数あるいは循環する序数)であり、宇宙と人間界を貫く真理(普遍的なものまたは新しく生まれ変わる或いは革命的変化が起こる)とも考えられた聖なる周数「1340」を元に創作決定されたと言う説があります。

これは「天武天皇」が「日本書紀」の編纂を発表した西暦681年から一巡(1340年)遡った年を計算して、即位年(西暦紀元前660年)を創作決定したのではないかと言うものです。
このために歴代天皇の在位年数が異常に長いものや架空の天皇が存在する事になったのではないかとも言われています。

「暦」については、有坂隆道氏が書かれた「古代史を解く鍵 暦と高松塚古墳」(講談社 1999年)の「第一章 日本書紀の暦日」をお読みください。

また、倉西裕子氏が書いた「日本書紀の真実 紀年論を解く」(講談社 2003年)などもご参照ください。

因みに建国記念日の2月11日は「日本書紀」に書かれている初代「神武天皇」の即位年月日「辛酉年正月庚辰朔」(辛酉(かのととり)の年1月1日)を明治時代にグレゴリオ暦(現在の暦)で計算して定められた月日です。

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2007年2月10日 (土)

継体天皇伝説外伝 和歌山県橋本市

奈良県境に接し、「紀ノ川」が流れる和歌山県橋本市隅田(すだ)町にある「隅田八幡神社」には国宝に指定されている古代の鏡「人物画象鏡」が伝わっています。

この鏡には、「癸未(みずのとみ)年八月・・・」から始まる銘文が書かれています。
文字は一部特定しにくい文字もありますが
「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」
の48文字ではないかという説があります。

この銘文をどのように読み解くかによって幾つかの説が発表されています。

その中の一つに
「癸未年」を503年として、「日十大王年」を「ヲシ大王」と読み「仁賢天皇」の時代にあて、「男弟王」を「ヲド王」と読み「男大迹王(継体天皇)」というように読み解くことが出来ると言うのです。

これに基づいて銘文を読むと
「503年8月、仁賢天皇の治世、男大迹王が忍坂宮に住んでいたとき、百済の斯麻(しま)王(武寧王ぶねいおう)は長寿を念じて開中費直と穢人今州利の二人を使わし、銅二百貫でこの鏡を作った。」
という内容になるそうです。

この内容が正しいとすると「仁賢天皇」の時代に即位前の「継体天皇」が大和国の「忍坂宮」(桜井市忍坂)に住んでいたことになります。

「仁賢天皇」と「男大迹王」が登場する伝承は岐阜県根尾の「薄墨桜」に関わる伝承「真澄探當證(ますみたんとうしょう)」とも通じるところがあります。
「真澄探當證」では「仁賢天皇」が弟「顕宗天皇」の子「男大迹王」を根尾から都へ呼び寄せて皇太子としています。

その他には「雄略天皇」とする説もあります。
因みに、癸未年を443年と読むと、「允恭天皇」の時代にあたり、皇后は「忍坂大中姫」でした。

「隅田八幡神社」については、「橋本市観光協会ホームページ」をご参照ください。

「隅田八幡神社」の所在地については下記地図をご参照ください。

「隅田八幡宮」
和歌山県橋本市隅田町垂井622
JR和歌山線隅田駅下車徒歩約20分

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2007年2月 9日 (金)

継体天皇伝説外伝 秋田県鹿角市

十和田八幡平国立公園内にある秋田県鹿角市には「大日霊貴(おおひるめむち)神社」(鹿角市八幡平小豆沢)通称「大日堂」と呼ばれる神社があります。

ここには、継体天皇に関わる「ダンブリ長者」の民話と毎年1月2日に行われる無形民俗文化財「大日堂舞楽」が伝わっています。

物語は若干違った形で幾つかの伝承があるようですが「長者になった夫婦とその娘の物語」です。

民話「ダンブリ長者」(概要)

昔々、継体天皇の時世に太郎という働き者の若者が父親と二人で暮らしていました。
ある日、徳子という娘が神様のお告げに従って太郎の村にやって来て二人は結ばれました。
太郎夫婦は貧しい暮らしでしたがよく働きました。

ある日、太郎の耳元に飛んできた「ダンブリ(方言でとんぼのこと)」が「若返り酒がわき出る泉」の場所を太郎に教えました。
そして、病気の父親にその酒を飲ませると見る見る元気になりました。
この事が評判になり、太郎夫婦は大金持ちになりました。

そして娘を授かり美しく育ったある日、娘が帝に仕えることになり太郎夫婦は娘を連れて都に上りました。
娘は「吉祥媛」と呼ばれる妃になり、夫婦には「ダンブリ長者」の称号が与えられ故郷に帰って祝宴を開きました。(一説にはこれが大日堂舞楽の始まりとも言われています。)
月日過ぎ、夫婦は老いて亡くなりました。

一方、娘の「吉祥姫」は両親が亡くなった事を知り、悲しみました。帝は「吉祥姫」に両親の霊を慰める「社」を故郷に建てるように言われました。こうして建てられたのが「大日堂」です。

時が流れ、養老2年に長者の話を聞いた元正天皇は僧の行基に荒れ果てた「大日堂」の再建を命じ、そして見事再建された大日堂の落成に際して舞楽が奉納されました。
これが今に伝わる「大日堂舞楽」の始まりだそうです。

「大日堂舞楽」は九つの舞から構成され、「大日堂」の由来に関わる内容です。

詳しくは「鹿角市のホームページの鹿角のむかしっこ」または「大日堂舞楽」をご覧ください。

「大日霊貴(おおひるめむち)神社」の所在地については下記地図をご参照ください。

「大日霊貴神社」(鹿角市八幡平小豆沢)
JR花輪線八幡平駅下車
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2007年2月 4日 (日)

「樟葉宮(くずはのみや)」について

今から千五百年前の507年2月4日に河内国楠葉の「樟葉宮」において第26代継体天皇が即位されました。

「樟葉宮」は511年10月に山背国(やましろのくに)筒城(つつき)に宮を移すまでの約5年間、継体天皇の都でした。

Katanotenzinsya44_1 「樟葉宮」は現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある「交野天神社」内の貴船神社付近にあったと言われています。
この「交野天神社」は桓武天皇が都を「平安京」へ移すにあたり先帝である「第49代光仁天皇」を祀った神社です。


Yodogawaryuiki77_1













「楠葉」は丹波から流れてくる「桂川」、琵琶湖から流れてくる「宇治川」、大和から流れてくる「木津川」の3つの川が合流して「淀川」となって瀬戸内海へと続く重要な地点にあります。

「古事記」によると「久須波(くすは)」といい、「建波邇安王(たけはにやすのみこ)の軍が敗走して川の渡りに殺到した時、敗走兵は糞が出て袴に付いた状態だった」という事から「くそばかま」と言われ、それが訛って「くすは」になったと書かれています。(日本書紀にも同様のことが書かれています。)

Yodogawahirakata11 この事から古くから川の渡場があり、「久須波の渡り」と言われていたようです。
そして、近くの河川の草地では「牧場」が設けられていて「馬」を飼い、「楠葉津」には多くの「船」が出入りしていたようです。

古代において「河川」は重要な「物流」と「情報」・「軍事」の幹線であり、これを支配することで「物」や「文化」および「情報」をいち早く得ることが出来ました。

また、古代道「山陽道」沿いにもあり、陸上からも素早く九州へ行くことが出来ました。因みに「都」から「九州 太宰府」へ向かう古代官道「山陽道」は非常に重要視され、官道の中で唯一「大路」とされました。

この様に「樟葉」は交通の要衝であり、軍事上も重要な拠点であったと言われています。

なお、「継体天皇」が倭中央政権の中枢「大和国」ではなく「河内国」に向かった理由は不明です。

一説には倭政権内部の反対派の「情報」を得るために知り合いであった「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)」が住む「楠葉」にて即位して一時的な「宮」を築いたのではないかとも言われています。

また、ある説では倭政権は国内の地方豪族を完全に支配しておらず、軍事的にも行動しやすい地に「宮」を築いたのではないかとも言われています。


「樟葉宮跡」の所在地については下記の地図をご参照ください。
詳しくは「継体天皇の宮跡をめぐる旅(2)」をご参照ください。

大阪府枚方市楠葉丘2丁目19の1 
交野天神社内貴船神社付近

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2007年2月 2日 (金)

2月4日 継体天皇即位1500年の記念日

2007年2月4日は第26代継体天皇が507年に「樟葉宮(くずはのみや)」で即位した日にあたります。
(現在の暦に直すと西暦507年3月5日だそうですが。)

古代の正史「日本書紀」によれば、

継体元年二月辛卯朔甲午(旧暦 507年2月4日)
大伴金村大連がひざまずいて、天子の璽符(みしるし)の「鏡」と「剣」を奉って拝礼しました。
男大迹命(をほどのみこと)は「自分は力不足なので他の賢者を選んでほしい。」と辞退されました。
大伴金村大連は地に伏してお願いしました。
男大迹命は西に向かって3回、南に向かって2回、辞譲の礼を繰り返しました。
大連たちは口をそろえて、「命の他には適任者はいません。どうか、お聞き届けください。」と嘆願しました。
男大迹命は「すべての者が願うので在れば、聞き届けない訳にはいかない。」と言われて、璽符(みしるし)を受け取られて即位しました。
という即位式の様子を記しています。

即位式については、中国から伝えられた即位形式が行われ、即位に際して三回辞退する辞譲の礼を行ったようです。。
また、天皇の即位に必要な「三種の神器」は、この時代にはまだ整っていなかったようです。

Kuzuha21_3 今から1500年前に即位式が行われた「樟葉宮」は現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある「交野(かたの)天神社」内の森の中にある「貴船神社」付近とされています。



枚方市周辺には継体天皇に関する史跡が多くあります。

Imasirozukakanban11_1 高槻市
継体天皇の本当の陵墓とされる
「今城塚古墳」があります。


Ootachausuyama11_1 茨木市
宮内庁が指定している継体天皇陵墓
「太田茶臼山古墳」があります。



Tutukinomiyasekihi1_1 京田辺市
継体天皇の二番目の宮跡「筒城宮跡」
同志社大学田辺キャンパス内に石碑があります。
(正門で見学許可が必要です。)
近くに候補地の「観音寺」もあります。

Otokunizi1_1 長岡京市
継体天皇の三番目の宮跡「弟国宮跡」
候補地「乙訓寺」があります。




所在地の詳細については「カテゴリー」の項目「近畿地区」をクリックして目的の記事をご覧ください。

なお、枚方市では2007年2月4日日曜日に継体天皇に関する歴史フォーラムなどが開催されます。
詳しくは枚方市のホームページをご覧ください

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2007年2月 1日 (木)

継体天皇 高向から樟葉宮への旅(3)

今から1500年前の507年1月、男大迹王(をほどのおおきみ)のちの継体天皇は倭中央政権からの即位招請に応えて「樟葉宮」へ向かい、1月12日に着いたと書かれています。
「継体天皇 高向から樟葉宮への旅(2)」では、福井県内のルートを戦国の道「朝倉街道」と想定して現在の坂井市丸岡から南越前町今庄までのルートをご紹介しました。
今回は南越前町今庄から滋賀県県境までのルートについてご紹介しましょう。
Imazyousekihi22 南越前町今庄は旧北陸道「今庄宿」があったところで、今も所々に宿場街の面影を残しています。
さて、旧北陸道は「今庄宿」で「木ノ芽峠」を越えて敦賀へ向かう道と「中山峠」を越えて海沿いを敦賀へ向かう道に分かれます。
これは、道の変遷を示し、古くからの「中山峠」越えに変わってより便利な「木ノ芽峠」越えの道が開かれた結果だそうです。
さらに古くは「春日野峠」を越えて「河野浦」から海岸沿いに進む道が在ったのではないかと言われています。(現在の越前市から南越前町河野へ向かう国道8号線に近いルート)

一般的に「街道」は古くは「海道」と言われ、海辺を中心にした道でした。しかし、砂浜が減少したり、消滅して海岸沿いの陸上部を歩くことになり、さらに短距離で便利な道が開かれて行ったと言われています。

Nakayamatouge22 「中山峠」は古代の官道「北陸道」の駅家「鹿蒜(かえる)」から海岸部の元比田地区へ下るルート上にある峠です。




Suizufukin22 古墳時代には海岸部に広い砂浜が続いていたようで、その証拠として、この地区でも製塩が行われていたそうです。




Kehizingu111_2 さて、道は海岸沿いの砂浜を南に進み、日本書紀にも度々登場する「気比宮」(現在の敦賀市気比神宮付近)に至ります。
その後、積雪のある山岳地帯を避けて海沿いに進み、関峠を越えて古代道の駅家「弥美(みみ)駅」があった美浜町河原市に至り、早くから拓けていた若狭国へ入って湖畔(三方五湖)近くを通って古代道の駅家「葦田駅」があった若狭町横渡付近を進みます。

波静かな大きな湾(小浜湾)を持つ若狭国は古くから倭中央政権との関係が深く、大陸文化の中継地であり、また豊富な海産物を倭中央政権へ供給していた地域でもありました。

Zyuuzenkofun11 小浜湾に流れ込む「北川」沿いには「十膳ノ森古墳」(若狭町天徳寺)などの多くの古墳があります。




Wakibukurokofungunn11 この中で若狭町脇袋地区の「膳部山」山麓には多くの古墳が密集する「脇袋古墳群」があり、食を司る氏族「膳臣(かしわでのおみ)」との関係が深い古墳群ではないかと言われています。


この後、「北川」沿いを上り若狭町熊川を経て「水坂峠」を越えて琵琶湖西岸に入ったと推測します。

なお、若狭国において古代官道「北陸道」には「玉置駅」・「濃飯駅」・「葦田駅」・「弥美駅」が存在したようですが時代の変化により変遷していたようです。

なお、この頃には琵琶湖西岸に直接抜ける「七里半越え」と言われる道の原形があったとも言われています。

ルートについては下記の地図をご参照ください。

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継体天皇 高向から樟葉宮への旅(2)

日本書紀に拠れば、今から1500年前、「男大迹王(をほどのおおきみ)」と呼ばれた王が越国三国から河内国交野郡樟葉へ「大王」に即位するために旅立たれたと書かれています。彼こそが「第26代継体天皇」です。

では、彼はどの道を辿って樟葉へ向かったのでしょうか。
「継体天皇 高向から樟葉宮への旅(1)」で大凡のルートをご紹介しました。今回はもう少し詳しく、少ない資料を基に推測してみたいと思います。

Tennoudou44 まず、出発地については、宮跡の伝承や会見の地「天皇堂」などの地元に伝わる伝承から「福井県坂井市丸岡町女形谷」をスタートの地とします。(異論はあると思いますが)


続いて辿った道筋ですが、太古の道は沼地などが多い川の氾濫域を避けるために山沿いに道が造られたと言われ、奈良県の奈良市から桜井市の山沿いにある「山辺の道」などが代表的な道と言われています。

そこで丸岡町周辺で道を探してみると、戦国武将「朝倉氏」が造ったと言われる「朝倉街道」が山沿いにあることが判りました。
この道はすべてが新しく造った道ではなく、多くは古くから在った道を修復拡張した道だと言われています。
また、この道は継体天皇の宮跡との伝承がある越前市「粟田部」や「味真野」を通っています。
そこで「朝倉街道」を辿って見ることにします。

「朝倉街道」については不明な点も多く、幾つかのルートがあります。今回は山沿いの道を進むことにします。

Narukabasi55 まず、丸岡町豊原から山崎三ヶを経て山沿いに鳴鹿へ向かい、ここで「九頭竜川」を渡り、永平寺町東古市に出ます。
ここから永平寺川沿いに現在の364号を進み、諏訪間地区のJA吉田郡を過ぎた416号との交差点を越えて右折して県道165号に入り「越坂峠」を越えて吉野・小畑を通り小畑峠を越えて福井市坂下町に出ます。

Fukuisitoubu44 ここから高速道路沿いに進み県道164号に合流して真っ直ぐな道を南へ岡西谷町まで行きます。




Bisyamonbasi22 岡西谷町から山沿いに成願寺町に入り桜台から南に進み毘沙門橋付近で足羽川を渡り中毘沙門町に入ります。
さらに南進して越前東郷駅の近くを通り県道32号に入り栃泉町で西に折れて山沿いに深見・岩倉田治島を経て東大味町に至ります。ここで「戸ノ口峠」と「榎峠」へ進む道に分かれます。

今回は回り道になりますが標高も低く古くからあった「榎峠」を目差し、山沿いに西へ向かいます。そして西袋町から「榎峠」を越えて鯖江市大正寺町に出ます。

Imadate22 ここから「三里山」の東側を通り「粟田部」・「味真野」を経て菅谷町から「日野山」山頂の東を通る「牧谷越え」の道を登って南越前町牧谷から上野付近で「日野川」を渡り「旧北陸道」古代駅「淑羅(しくら)」があった鯖波地区に合流します。これが「朝倉街道」の概要です。

しかし、「牧谷越え」は非常に厳しい道であるため、「日野山」を大きく迂回したと考えられます。

そこで「粟田部」から西へ向かい、古代の官道「北陸道」が通ったと言われる「村国山」北側の台地状の「国高」地区を通り「日野川」を渡り「日野川」右岸の山沿いを進みます。

Simizu22 そして継体天皇の「初音の宮」跡と言われる南越前町清水「熊野神社」付近を通って「鯖波」を経て「湯尾峠」を越え「今庄」に向かいます。




Kaerukanban22 「今庄」からは、西に向かい「南今庄」へ入ります。
ここが古代駅「鹿蒜(かえる)」が在ったところで近くには「鹿蒜神社」があります。
さらに進み「中山峠」を越えて海岸線にでます。

なお、一説には海岸沿い道は「河野浦」まで続いていたとも言われ、「粟田部」から南西に進み「春日野峠」を越えて「河野浦」に出たルートが最古の北陸道ではないかと言われています。
(現在の越前市から南越前町河野へ抜ける国道8号線に近い所を通っていたと思われます。)

この後は海岸沿いを進み「敦賀」から「若狭国」「近江国」「山城国」を経て「樟葉宮」へ至ったのではないかと推測します。

古代の道については「古事記」や「日本書紀」などの記述を元に研究されています。
例えば、「古事記」の中に応神天皇が作られた「この蟹や何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 何処に到る ・・・・」という歌あります。一説にはこの歌は敦賀から奈良に住む「和邇氏」に蟹を献上した時の歌だと言われています。この中には敦賀から奈良までのコースが歌われていて、それによると「敦賀から琵琶湖西岸を経て山科から木幡・宇治を経て奈良へ向かった」事が推測されるそうです。


「朝倉街道」のルートについては下記の地図をご参照ください。

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