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2007年2月 1日 (木)

継体天皇 高向から樟葉宮への旅(3)

今から1500年前の507年1月、男大迹王(をほどのおおきみ)のちの継体天皇は倭中央政権からの即位招請に応えて「樟葉宮」へ向かい、1月12日に着いたと書かれています。
「継体天皇 高向から樟葉宮への旅(2)」では、福井県内のルートを戦国の道「朝倉街道」と想定して現在の坂井市丸岡から南越前町今庄までのルートをご紹介しました。
今回は南越前町今庄から滋賀県県境までのルートについてご紹介しましょう。
Imazyousekihi22 南越前町今庄は旧北陸道「今庄宿」があったところで、今も所々に宿場街の面影を残しています。
さて、旧北陸道は「今庄宿」で「木ノ芽峠」を越えて敦賀へ向かう道と「中山峠」を越えて海沿いを敦賀へ向かう道に分かれます。
これは、道の変遷を示し、古くからの「中山峠」越えに変わってより便利な「木ノ芽峠」越えの道が開かれた結果だそうです。
さらに古くは「春日野峠」を越えて「河野浦」から海岸沿いに進む道が在ったのではないかと言われています。(現在の越前市から南越前町河野へ向かう国道8号線に近いルート)

一般的に「街道」は古くは「海道」と言われ、海辺を中心にした道でした。しかし、砂浜が減少したり、消滅して海岸沿いの陸上部を歩くことになり、さらに短距離で便利な道が開かれて行ったと言われています。

Nakayamatouge22 「中山峠」は古代の官道「北陸道」の駅家「鹿蒜(かえる)」から海岸部の元比田地区へ下るルート上にある峠です。




Suizufukin22 古墳時代には海岸部に広い砂浜が続いていたようで、その証拠として、この地区でも製塩が行われていたそうです。




Kehizingu111_2 さて、道は海岸沿いの砂浜を南に進み、日本書紀にも度々登場する「気比宮」(現在の敦賀市気比神宮付近)に至ります。
その後、積雪のある山岳地帯を避けて海沿いに進み、関峠を越えて古代道の駅家「弥美(みみ)駅」があった美浜町河原市に至り、早くから拓けていた若狭国へ入って湖畔(三方五湖)近くを通って古代道の駅家「葦田駅」があった若狭町横渡付近を進みます。

波静かな大きな湾(小浜湾)を持つ若狭国は古くから倭中央政権との関係が深く、大陸文化の中継地であり、また豊富な海産物を倭中央政権へ供給していた地域でもありました。

Zyuuzenkofun11 小浜湾に流れ込む「北川」沿いには「十膳ノ森古墳」(若狭町天徳寺)などの多くの古墳があります。




Wakibukurokofungunn11 この中で若狭町脇袋地区の「膳部山」山麓には多くの古墳が密集する「脇袋古墳群」があり、食を司る氏族「膳臣(かしわでのおみ)」との関係が深い古墳群ではないかと言われています。


この後、「北川」沿いを上り若狭町熊川を経て「水坂峠」を越えて琵琶湖西岸に入ったと推測します。

なお、若狭国において古代官道「北陸道」には「玉置駅」・「濃飯駅」・「葦田駅」・「弥美駅」が存在したようですが時代の変化により変遷していたようです。

なお、この頃には琵琶湖西岸に直接抜ける「七里半越え」と言われる道の原形があったとも言われています。

ルートについては下記の地図をご参照ください。

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