« 古代の気候と継体天皇 | トップページ | 継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう) »

2007年2月18日 (日)

継体天皇と古事記

今から1500年前に即位したと言われる「継体天皇」のについては日本の古代の正史「日本書紀」の中に記述がありますが「日本書紀」より前に完成した最古の歴史書と言われる「古事記」の中にもその記述を見ることが出来ます。

「古事記」には「武烈天皇」が亡くなった記述の後に「皇位を継ぐ王が居なかったので、応神天皇の五世の孫、袁本杼命(をほどのみこと)を近江国から呼び迎えて、手白髪命(たしらかのみこと)と見合わせて即位した」と即位について簡単にしか書かれていません。

これは神武天皇から推古天皇までが綴られている「古事記」の中で、終盤の比較的新しい「仁賢天皇」以降は天皇に関する最小限の記述しか書かなかったからだと言われています。

また、継体天皇の妃については
1 三尾氏らの祖出身の若比売(わかひめ)
2 尾張連らの祖出身の凡連(おほしのむらじ)の妹、目子郎女(めこひめ)
3 仁賢天皇の御子、手白髪命(てしらかのみこと)
4 息長真手王の女、麻組郎女(まくみのひめ)
5 坂田大俣王の女、黒比売(くろひめ)
6 三尾君加多夫の女、倭比売(やまとひめ)
7 阿部之波延比売(あべのはえひめ)
以上の7名の妃の名前と子供たちの名前が書かれています。
(日本書紀には9名の妃の名前が書かれています。)

その他、天皇に従わなかった石井(いわい)を物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連と大伴金村(おおとものかねむら)連の二人を遣わして殺したと書かれています。

そして継体天皇は43歳で亡くなったと書かれ、注釈文として丁未の年(527年)4月9日に亡くなったと書かれています。
古事記の崩御年と年齢から考えると、日本書紀に書かれている即位時には23歳の青年だったことになります。

「古事記」は天武天皇の命令で「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が口伝えに覚えた歴代天皇や豪族の伝承を711年になってから元明天皇が「太安万侶(おおのやすまろ)」に書きまとめさせて712年に完成したものです。

「日本書紀」は年代を記して年代順に事柄を記述する「編年体」で書かれているのに対して、「古事記」は歴代天皇についての言い伝えを物語風に記述した「紀伝体」という形態で書かれているそうです。

また、「神話」の記述が全体の三分の一を占めていることや古代の「歌謡」も多く書かれていることも「日本書紀」と違うところだそうです。

「古事記」は他の古文書に編纂についての記述が無い上に南北朝以後の写本しかなく「偽書」ではないかと言われた時期も在りましたが、編纂者「太安万侶」の墓誌が奈良市此瀬町の茶畑で見つかったことから信憑性が高まりました。

« 古代の気候と継体天皇 | トップページ | 継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 継体天皇と古事記:

« 古代の気候と継体天皇 | トップページ | 継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう) »