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2007年2月 4日 (日)

「樟葉宮(くずはのみや)」について

今から千五百年前の507年2月4日に河内国楠葉の「樟葉宮」において第26代継体天皇が即位されました。

「樟葉宮」は511年10月に山背国(やましろのくに)筒城(つつき)に宮を移すまでの約5年間、継体天皇の都でした。

Katanotenzinsya44_1 「樟葉宮」は現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある「交野天神社」内の貴船神社付近にあったと言われています。
この「交野天神社」は桓武天皇が都を「平安京」へ移すにあたり先帝である「第49代光仁天皇」を祀った神社です。


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「楠葉」は丹波から流れてくる「桂川」、琵琶湖から流れてくる「宇治川」、大和から流れてくる「木津川」の3つの川が合流して「淀川」となって瀬戸内海へと続く重要な地点にあります。

「古事記」によると「久須波(くすは)」といい、「建波邇安王(たけはにやすのみこ)の軍が敗走して川の渡りに殺到した時、敗走兵は糞が出て袴に付いた状態だった」という事から「くそばかま」と言われ、それが訛って「くすは」になったと書かれています。(日本書紀にも同様のことが書かれています。)

Yodogawahirakata11 この事から古くから川の渡場があり、「久須波の渡り」と言われていたようです。
そして、近くの河川の草地では「牧場」が設けられていて「馬」を飼い、「楠葉津」には多くの「船」が出入りしていたようです。

古代において「河川」は重要な「物流」と「情報」・「軍事」の幹線であり、これを支配することで「物」や「文化」および「情報」をいち早く得ることが出来ました。

また、古代道「山陽道」沿いにもあり、陸上からも素早く九州へ行くことが出来ました。因みに「都」から「九州 太宰府」へ向かう古代官道「山陽道」は非常に重要視され、官道の中で唯一「大路」とされました。

この様に「樟葉」は交通の要衝であり、軍事上も重要な拠点であったと言われています。

なお、「継体天皇」が倭中央政権の中枢「大和国」ではなく「河内国」に向かった理由は不明です。

一説には倭政権内部の反対派の「情報」を得るために知り合いであった「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)」が住む「楠葉」にて即位して一時的な「宮」を築いたのではないかとも言われています。

また、ある説では倭政権は国内の地方豪族を完全に支配しておらず、軍事的にも行動しやすい地に「宮」を築いたのではないかとも言われています。


「樟葉宮跡」の所在地については下記の地図をご参照ください。
詳しくは「継体天皇の宮跡をめぐる旅(2)」をご参照ください。

大阪府枚方市楠葉丘2丁目19の1 
交野天神社内貴船神社付近

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