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2007年3月27日 (火)

石棺の故郷(3) 越前青石  (福井市)

今から千五百年前に第26代天皇として即位した「継体天皇」は父の死後、母「振姫」の故郷「越前国」で幼青年期を過ごしたと言われています。

母「振姫」の故郷は「越前国三国坂中井」にあった「高向」と言うところで、現在の福井県坂井市丸岡町にありました。
この地域周辺の峰には多くの古墳が築かれ、その中から多くの石棺が見つかっています。



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越前の石棺の特徴は使用されている石材がすべて地元産の石材で、その中でも福井市中心部にある「足羽山」北西周辺から産出される「越前青石」通称「笏谷石(しゃくだにいし)」が大部分を占めていると言われています。

Asuwayamakeitaizou11_4 この「足羽山」山頂部には幾つかの古墳があります。
また、継体天皇を祀った「足羽神社」が鎮座し、山頂部にある円墳の上には笏谷石で造られた「継体天皇像」が置かれています。
そのほか山頂部全体が公園となっており、春は桜、初夏にはあじさいなどが咲き乱れ、ミニ動物園やお茶屋などもあり、福井市のシンボル的存在です。


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足羽山の石切場跡は足羽山北西山麓にある「笏谷神社」周辺の岩盤露出部だけでなく、地下にある岩盤を削った巨大な横穴が幾つも造られているそうです。
写真は「笏谷神社」の近くにある「越前石七ッ尾」と呼ばれる地下採石口跡です。


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「丹巌洞」は中世の石切場跡に福井藩の藩医が建てた庵で幕末の文化人が集まった所です。現在は「料亭 丹巌洞」となっていますが、今も石切場跡が残り、苔生した庭や庵には江戸時代の香りを残すところです。


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越前の石棺のもう一つの特徴は「刳抜式舟形石棺」が多いと言うことだそうです。
「福井県史」によれば発見された28個の石棺の内、刳り抜き式が23個で複数の石を組み合わせた組合せ式が5個あるそうです。
そして刳抜式の内、割竹形が4個、船形が18個、不明が1個確認されているそうです。
また、石棺の中に排水溝や排水孔を造ったものもあり、これも特徴の一つと言われています。
写真は永平寺町にある松岡公園内の「春日山古墳」跡広場に置かれている泰遠寺山古墳の石棺です。


Kasugayamakofun11 また、石棺は4世紀後半から古墳が衰退した6世紀後半にかけての二百数十年間造られ続けられたと言われ、九州や出雲の影響を受けながらも独自に発達してきたようです。
写真は松岡公園内の「春日山古墳石室」展示棟にある石棺横が開口した石棺で、出雲の影響を受けていると言われています。

大陸の先進的文化が渡来していたはずの越前において、なぜ5トン以上もある割石を手間をかけて刳り抜いて重さ1トンもの重い石棺を造り続けたのか、謎は残ります。


それぞれの所在地は下記の地図をご参照下さい。

「足羽山」
福井市足羽上町
JR福井駅下車約1キロ
(注意、愛宕坂は石段の続く道です。)

「笏谷神社」 福井市足羽5丁目
「丹巌洞」  福井市加茂河原1丁目

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「松岡公園」
永平寺町松岡室
えちぜん鉄道勝山線
松岡駅下車約500m

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2007年3月25日 (日)

石棺の故郷(2) 竜山石 高砂市・加古川市

継体天皇の真の陵墓と言われる「今城塚古墳」からは三種類の石棺に使われたと推測される石片が発見されています。
この中の一つが播磨産の「竜山石(たつやまいし)」と呼ばれるものです。

「竜山石」は兵庫県を流れる「加古川」流域周辺の石切場から産出される石材だそうです。
Harimaisitatuyama41 特に「加古川」河口の高砂市にある「竜山」とこれに続く「伊保山」周辺には古墳時代から続く大規模な石切場や石切場跡を見ることが出来ます。



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このうち「伊保山」の東側の山腹の古代の石切場跡には「生石神社(おおしこじんじゃ)」があります。


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この神社のご神体は家を横に寝かせたような形をした高さ約5mの「石宝殿」と呼ばれる500トンもある巨石です。
この石は岩をくり抜いて造られた人工の石造物です。
一説には物部守屋によって造られたとも言われていますが、何のために造られ、なぜ未完成のまま放置されたのかも解っていません。

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また、「竜山」の北東約5キロにある「平荘湖」北部(加古川市池尻にある貯水ダム)にも古代からの石切場跡があります。
Harimaisisekikan22 この湖畔にある弁天神社の境内には貯水ダムに沈んだ古墳の物とされる「竜山石」で造られた石棺の蓋が置かれています。



さらに約10㎞北上した「加古川」上流部の支流域にある加西市高室周辺にも古代からの石切場跡があるそうです。

「生石神社」の所在地については下記地図をご参照下さい。

「生石神社」へは
JR宝殿駅下車 約1キロ

「平荘湖」へは
JR加古川駅下車 約3キロ

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石棺の故郷(1) 二上山 (大阪府太子町)

継体天皇の真の陵墓と言われる「今城塚古墳」の発掘調査において三種類の石棺石材が発見されました。
その中の一つが「二上山白石」と言われるものです。

Inariyamakamokohun44 この石材は継体天皇の生まれ故郷、滋賀県高島市安曇川町にある「稲荷山鴨古墳」の石棺としても使用されています。





二上山(にじょうざん)は奈良県香芝市・葛城市と大阪府太子町の県境にある山で雄岳(517m)と雌岳(474m)の二つの連なる頂からなり、山麓にある穴虫峠や岩屋峠および竹内峠は古くから大阪と奈良を結ぶ交通の要所でした。
この内、雄岳には葛城坐二上神社と天武天皇の悲運の皇子「大津皇子」の陵墓があります。

さて、「二上山」周辺は凝灰岩や石英安山岩が露出していて古墳時代から中世にかけての石切場の跡が点在しています。

Donturubo11 この中で「穴虫峠」近くにある「屯鶴峯(どんづるぼう)」は大規模に凝灰岩が露出した奇景が広がっています。




Botandou11 また、「穴虫峠」を太子町側に下った溜め池手前の府道703号から近鉄南大阪線の土手にある斜めの小道を上り、小さな踏切を渡った山麓には「牡丹洞」と呼ばれる石切場跡があります。
そして府道を挟んだぶどう畑周辺の中にも古代の石切場跡が在るそうです。

一方、「穴虫峠」とは二上山を挟んで反対側にある国道166号(通称竹内街道)にある「竹内峠」を太子町側に下った右側にある「釣り堀」近くの山腹には「鹿谷寺跡」があります。
Sikadaniziato22 ここは古代の石切場の跡に奈良時代に造られた石窟寺院が在ったとされ、高さ5mの十三重塔や石窟があります。




Iwaya33 また、「鹿谷寺跡」の山上部にある「岩屋峠」下にも「岩屋」と呼ばれる石窟寺院跡が在ります。




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その他、太子町内には、「継体天皇」の孫にあたる「欽明天皇」の子供たち「敏達」「用明」「推古」の各天皇の陵墓および曾孫にあたる「聖徳太子」の陵墓が在ります。

太子町については下記地図をご参照下さい。
聖徳太子陵墓へは
近鉄大阪線 上ノ太子駅下車約1.5キロ

穴虫峠へは
近鉄大阪線 上ノ太子駅または二上山駅 約2キロ
JR和歌山線 香芝駅 約4キロ

車では
阪和道美原太子線 太子インター
国道166号

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2007年3月23日 (金)

継体天皇の失われた石棺

10imasirozuka48_1 今から1500年前に第26代天皇として即位した「継体天皇」の本当の陵墓と言われる「今城塚古墳」の第10次調査により、古墳にあった石室とその中の石棺は1596年に起きた「伏見大地震」以前に石室と石棺が失われていた可能性が大きいことが解って来ました。


10imasirozuka42_1 これまでの「今城塚古墳」の調査により3種類の異なった石棺に使われたであろう石片が発見されています。
このことから古墳には3つの石棺が納められていたのではないかと言われています。
この石片は熊本産の「馬門石(まかどいし)」と二上山産の「二上山白石」、そして播磨産の「竜山石(たつやまいし)」の三種類です。

10imasirozuka43_1 この中で「継体天皇」の石棺にふさわしい石材は九州熊本産の「馬門石」、またの名を「阿蘇ピンク石」だと言われています。
この石材は熊本県宇土市網津町馬門地区から産出される石だそうです。

この「馬門石」が使用されていると推定される例として

野神古墳棺(岡山県長船町)
長持山古墳棺(大阪府藤井寺市林)
金屋の石仏下の棺(奈良県桜井市金屋)
兜塚古墳棺(奈良県桜井市浅古)
東乗鞍古墳奥棺(奈良県天理市乙木町)
円山古墳棺(滋賀県野洲市)
甲山古墳棺(滋賀県野洲市)
植山古墳西石室(奈良県橿原市五条野町)

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(写真は滋賀県野洲市甲山古墳)

などがあり、九州から瀬戸内海を渡って持ってこられたようです。

Tennouzihaireiisi11 また、変わったものでは大阪市天王寺区にある聖徳太子ゆかりの天王寺南大門近くにある「熊野権現拝礼石(大阪市天王寺区)」も「馬門石」だそうです。



お知らせ

継体天皇の故郷、滋賀県高島市安曇川町「藤樹の里文芸会館」にて来る3月25日日曜日午後2時から「謎の大王 継体天皇を探る」と題して、水谷千秋先生を招いて講演会が開催されます。
くわしくは、高島市教育委員会までお問い合わせ下さい。

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2007年3月 6日 (火)

失われた継体天皇の石室

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3月4日日曜日に大阪府高槻市にて「真の継体天皇陵」と言われる「今城塚古墳」の第10次調査現地説明会が行われました。

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今回の調査結果で注目されたのは前方後円墳の後円部中心線から北側に向かって地震によって起きた「地滑り」跡から石室を支えるために石室下に造られた四角い石組みの基礎部分の三辺がコの字形に確認されたことです。
写真で見ると中央部分が大きく沈んでいるのは、典型的な地震による地滑り(円弧滑り)の状況を示しているそうです。

なお、この石組みの残る1辺は第8次調査の時に後円部中心線から南側(今回とは反対側)で石組みの一部が発見されていて、石室の基礎部分ではないかと言われていました。

10imasirozuka46 今回の調査で、古墳は三段状になっていて最上部三段目の盛土の内に横穴式石室が造られていた可能性が高くなってきました。



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しかし、石室を形作っていた巨大な石や石棺が発見されず、複数の調査地点で石棺の破片や副葬品の断片が出土していることから早い時期に盗掘を受け、しかも地震での地滑りが起きる前の時点で石室が失われていた可能性が高いことが解ってきました。

では、石室の中に納められていた3つの石棺(石棺に使われたと思われる三種類の石片が見つかっている)と石室はいつ頃失われたのでしょうか。

中世の古文書「公衡公記」には正応元年(1288年)に盗掘者が鏡などを盗んだことが記録されていることから、13世紀後半から地震が起きる15世紀末までの間に石室と石棺が失われたと言われています。

また、ある説では石室の解体は近世に入ってからではないかとも言われています。

Isibutaikofun44 何れにしても奈良県明日香村にある「石舞台古墳」(写真)で明らかなように、巨大な石で築造された石室を運び出すには相当の人力と機材が必要だったろうと想像されます。


では、継体天皇の石棺と石室はどこへ消えたのでしょうか。
城の石垣に使われたのでしょうか。
それとも寺院や神社で使われたのでしょうか。
あるいは小川の橋やどこかの庭石として使われたのでしょうか。
はたまた、古墳のどこかに今も眠り続けているのでしょうか。


「今城塚古墳」については当ブログの「継体天皇と今城塚古墳をご参照ください。

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2007年3月 2日 (金)

継体天皇と今城塚古墳

日本書紀によると継体25年2月7日に「磐余玉穂宮」で亡くなられた「継体天皇」はこの年の12月5日に「藍野陵(あいののみささぎ)」に葬られたと書かれています。
一方、古事記には「三島の藍陵」と書かれています。

天皇の陵墓については18世紀の初め頃に徳川幕府が各藩に天皇陵墓の所在を報告するように命令を出したことが知られています。
その後も天皇陵の所在探しが行われ、幕末から明治にかけて天皇陵墓の確定が行われてきました。

そして現在では宮内庁により各天皇の陵墓が指定され、関連する古墳や天皇陵墓として可能性があるものについては参考陵墓として宮内庁が指定管理をしています。(考古学的に天皇陵墓として疑問を指摘されている陵墓もあるが宮内庁は改める気配はない。)

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Ootachausuyama11_2 宮内庁に拠れば「継体天皇陵」には大阪府茨木市にある「太田茶臼山古墳」(墳丘長230m)を指定しています。



Imasirotukakofun44  しかし、考古学研究者による古墳の研究・調査によって「太田茶臼山古墳」の東側1.5キロのところにある「今城塚古墳」の方が埴輪の年代などの考古学的資料から見ると「継体天皇陵」にふさわしいのではないかと言われています。



Imasirozuka55 「今城塚古墳」は大阪府高槻市郡家新町にあります。
墳丘長182m
後円部 直径100m・高さ11m
前方部 幅142m・高さ12m
築造時代 6世紀前半
現在は国の史跡に指定され、高槻市によって史跡公園として整備が進められています。
また、高槻市教育委員会によって毎年発掘調査が行われた結果、「中世の砦の造成によって古墳が大きく壊された」とされていましたが、「太閤秀吉が築城した伏見城の天守閣が崩壊したことで知られる慶長伏見地震による地滑りで古墳の形が大きく崩れた」ことが解ってきました。

平成18年度の発掘調査では、後円部に在った石棺を納める石室の下の基礎部分が発見されました。

この現地説明会が平成19年3月4日日曜日午前10時から午後3時まで「今城塚古墳」で行われるそうです。
なお、周辺には車の駐車場は在りませんが最寄りの駅から臨時バスが出るようなので、詳しくは高槻市のホームページ」のお知らせをご覧ください。

また、過去の現地説明会については森本行洋氏のホームページ 古墳のある街並みから」の古墳見て歩き今城塚古墳を閲覧していただくと大変良く解ります。

なお、当ブログ継体天皇の陵墓を旅する 高槻市の記事もご参照ください。

「今城塚古墳」の所在地については下記の地図をご覧ください。
名神高速「茨城インター」から国道171号へ約5キロ
JR摂津富田駅から約1.5キロ(徒歩約25分)
JR高槻駅から約2.5キロ

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2007年3月 1日 (木)

継体天皇と安閑天皇

日本書紀に拠れば、第27代「安閑天皇」は「継体天皇」と尾張連草香の娘「目子媛(めのこのひめ)」との間に生まれた皇子で「勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)」と呼ばれていました。
生まれた場所は不明ですが、「継体天皇」は即位前まで越国で暮らしていた事から考えると越国で生まれたと推測されます。
しかし、この時代にはまだ母系社会が強く残っていたとされることや平安時代まで「通い婚」(夫が妻の実家に通う婚姻形式)があったことから母「目子媛」の故郷「尾張」で暮らしていたのかも知れません。

Azimanomagarinosato11 因みに越国、現在の福井県内には越前市味真野(写真は勾皇子が住んだと言う真柄にある勾の里の碑)や粟田部、坂井市三国町池上地区などに「勾皇子(まがりのおうじ)」が生まれ育ったとされる伝承が伝わっています。

Tutukinomiyasekihi1_2 今から1500年前の西暦507年3月5日(旧暦2月4日)に継体天皇が「樟葉宮」で大王に即位した後、二番目の宮「筒城宮」(写真は同志社大学田辺キャンパス内にある筒城宮跡の碑)に遷都した2年後の継体7年(513年)9月に「勾大兄皇子」は「仁賢天皇」の皇女「春日皇女」と結婚したと書かれています。
また、この年の12月には継体天皇の後を継ぐ「大兄皇子」(皇太子のこと)に指名されて継体天皇と共に政務を行ったそうです。

その後、継体天皇は継体20年(526年)に大和入りして「磐余玉穂宮」に宮を開らきましたが翌年(527年)には筑紫国の「磐井」の征伐に乗り出して1年半後に平定しました

継体25年(531年)には継体天皇が病にかかり、亡くなる前に皇位を譲られて「勾大兄皇子」が大王に即位したと書かれています。

Kanahasinomiya1_2 「勾大兄皇子」の即位後の宮は「金橋宮」と言い、現在の奈良県橿原市曲川町の金橋神社付近に在ったとされています。




Ankaryou11_1 しかし、即位後2年で亡くなられ、古市高屋丘陵に葬られたと書かれています。この時、70歳だったそうです。
現在、宮内庁では古市高屋丘陵を大阪府羽曳野市古市5丁目にある「高屋築山古墳」として「安閑天皇陵」に指定しています。

なお、日本書紀には継体天皇の崩御年の資料として「百済本記」の中の記述を示していますが、これには天皇と皇太子そして皇子が共に亡くたったと書かれています。
これが事実とすると「継体天皇」が亡くなられた時に「勾大兄皇子」も亡くなったことになります。

安閑天皇「金橋宮」については継体天皇の後継者たちへの旅(2)橿原市をご参照ください。

また、「安閑天皇陵」については継体天皇の後継者たちへの旅(1)羽曳野市をご参照ください。

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