失われた継体天皇の石室
3月4日日曜日に大阪府高槻市にて「真の継体天皇陵」と言われる「今城塚古墳」の第10次調査現地説明会が行われました。
今回の調査結果で注目されたのは前方後円墳の後円部中心線から北側に向かって地震によって起きた「地滑り」跡から石室を支えるために石室下に造られた四角い石組みの基礎部分の三辺がコの字形に確認されたことです。
写真で見ると中央部分が大きく沈んでいるのは、典型的な地震による地滑り(円弧滑り)の状況を示しているそうです。
なお、この石組みの残る1辺は第8次調査の時に後円部中心線から南側(今回とは反対側)で石組みの一部が発見されていて、石室の基礎部分ではないかと言われていました。 今回の調査で、古墳は三段状になっていて最上部三段目の盛土の内に横穴式石室が造られていた可能性が高くなってきました。
しかし、石室を形作っていた巨大な石や石棺が発見されず、複数の調査地点で石棺の破片や副葬品の断片が出土していることから早い時期に盗掘を受け、しかも地震での地滑りが起きる前の時点で石室が失われていた可能性が高いことが解ってきました。
では、石室の中に納められていた3つの石棺(石棺に使われたと思われる三種類の石片が見つかっている)と石室はいつ頃失われたのでしょうか。
中世の古文書「公衡公記」には正応元年(1288年)に盗掘者が鏡などを盗んだことが記録されていることから、13世紀後半から地震が起きる15世紀末までの間に石室と石棺が失われたと言われています。
また、ある説では石室の解体は近世に入ってからではないかとも言われています。 何れにしても奈良県明日香村にある「石舞台古墳」(写真)で明らかなように、巨大な石で築造された石室を運び出すには相当の人力と機材が必要だったろうと想像されます。
では、継体天皇の石棺と石室はどこへ消えたのでしょうか。
城の石垣に使われたのでしょうか。
それとも寺院や神社で使われたのでしょうか。
あるいは小川の橋やどこかの庭石として使われたのでしょうか。
はたまた、古墳のどこかに今も眠り続けているのでしょうか。
「今城塚古墳」については当ブログの「継体天皇と今城塚古墳」をご参照ください。
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