継体天皇と足羽山古墳群
福井市中心部の足羽川左岸に連なる標高116mの「足羽山」は、山稜が公園として整備されて15000株の「あじさい」が咲き誇る福井市民の憩いの場となっています。
この「足羽山」には「継体天皇」を祀る「足羽神社」や「継体天皇像」のほかに、前方後円墳1基・円墳32基などの多くの古墳が点在していて、「足羽山」に隣接した「兎越山」「八幡山」を含めた「足羽三山」周辺を「足羽山古墳群」と呼び、継体天皇と関わりを持ったであろう古代の豪族「足羽氏」一族の墓とも言われています。
古くは「木田山」や「愛宕山」或いは「社山」・「善住山」などと呼ばれ、庶民の園地となっていましたが、明治には入り「足羽山」と一般的に呼ばれるようになったようです。
また、大規模な整地も行われ、その際に石棺なども発見されましたが多くの古墳が破壊されました。
戦後も開発が進み、幾つかの古墳の発掘調査が行われたものの消失した物も多いようです。
現在、「継体天皇像」が建っている「山頂古墳」は明治16年に像を建設する際に竪穴式石室と石棺が発見されました。
この石棺はすでに盗掘されていましたが、表面に「直弧文」の線刻が施された4世紀中頃の装飾石棺だそうです。
石棺の石材は足羽山西側山麓域で産出する「笏谷石」で、舟形をしています。(石棺は福井市立郷土歴史博物館で展示)
また、古墳は円墳(直径60m・高さ10m)らしいのですが公園整備の際に相当成形されているようなので、本当に二段状だったかも不明だそうです。 装飾石棺は足羽山西部北側尾根端にある「笏谷神社」付近にあった「小山谷古墳」でも発見され、この石棺は蓋に円形の銅鏡を略化したような「浮彫文」の装飾がある4世紀末の石棺と言われています。
(石棺は東京国立博物館東洋館前の軒下で雨ざらし状態にあるらしい。事実ならば福井県で引き取った方が良いのではないでしょうか。) また、「山頂古墳」の北側斜面には「龍ヶ岡古墳」がありました。
この古墳からは笏谷石で造られた家型石棺を盛り土した土台に置き、直接覆土形成した4世紀末の円墳(約30m)ではないかと言われています。
この石棺は江戸時代(文政2年)に発見され、男女2体の遺体が納められていました。
その後、供養の為に石棺の周りに基壇を造って地蔵堂を建立しました。
しかし、空襲で地蔵堂は消失し、調査ののちに「復興博覧会」の会場として整地されてしまったそうです。(石棺は福井市立郷土歴史博物館で展示)
その他、「足羽山」西部西側山稜の「宝石山」では墓地造成の際に男女2体を納めた舟形石棺が出土し、これも円墳だと推測されています。
また、西部南側尾根端には横穴式石室を持つ円墳「饅頭山古墳」があります。
この古墳は「運動公園」から「足羽山」に延びる遊歩道の足羽山入口尾根にあり、綺麗に整備されて公園の一部としてその姿を留めています。
なお、前方後円墳は古墳時代中期の「柄鏡(えかがみ)塚古墳」(約61m)のほかに兎越山の「兎越山18号墳」(36m)が確認されています。 その他にも首長墳と思われる円墳として「稲荷山古墳跡」(約30m・現在の平和塔)や「大塚山古墳」(約54m)「兎越山24号墳」(36m)があるそうです。
また、小規模の円墳なども多く点在し、平和塔の近くの茶屋付近にもその痕跡を見ることが出来ます。
これらの古墳から発見された石棺や副葬品の一部は福井市立郷土歴史博物館や福井県立歴史博物館に展示されています。
下記の写真は福井市立郷土歴史博物館(福井市宝永3丁目12-1)の展示風景です。
「福井市立郷土歴史博物館」の場所および開館時間等については同ホームページをご参照下さい。
下記の写真は福井県立歴史博物館(福井市大宮2丁目19-15)の展示風景です。
「福井県立歴史博物館」の場所および開館時間等については同ホームページをご参照ください。
足羽山へはJR北陸本線「福井駅」から徒歩約30分です。
車では北陸道「福井インター」から市内へ向かってください。
山上まで普通車(大型車不可)で行くことが出来ます。(約20分)