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2007年7月21日 (土)

継体天皇と三尾君(みおのきみ)

「日本書紀」に拠れば、「三尾君」の始祖は、「垂仁天皇」と山背大国の不遅(ふち)の娘「綺戸辺(かにはたとべ)」の間に生まれた「磐衝別命(いわつきわけのみこと)」であると書かれています。

そのほか、「三尾」氏については「垂仁天皇」の子「景行天皇」の妃として「三尾氏磐城別(みおのうじいわきわけ)」の妹「水歯郎媛(みずはのいらつめ)」の記述が見られます。

そして、「継体天皇」の妃として「三尾角折君」の妹「稚子媛(わこひめ)」および「三尾君堅槭」の女「倭媛(やまとひめ)」の二人が記されています。


一方、「古事記」では、「垂仁天皇」と大国之淵が女「弟刈羽田刀弁(おとかりはたとべ)」の間に生まれた「石衝別の王」を「羽咋の君」と「三尾の君」の祖であると記しています。

また、「継体天皇」の妃として「三尾君等の祖 若比売(わかひめ)」および「三尾君加多夫(かたふ)の妹 倭比売(やまとひめ)」と記しています。

これらのことから「三尾君」は「垂仁天皇」の皇子「イワツクワケ」を始祖として「継体天皇」の時代まで続いていた一族であることが伺えます。


そしてこの事は「続日本紀」の中に記された「上宮記逸文」にある継体天皇の母「振姫(ふりひめ)」の家系

伊久牟尼利比古(イクメネリヒコ)大王
磐衝別(イワツキワケ)命
伊波智和希(イハチワケ)
伊波己里和希(イワコリワケ)
麻和加介(マワカケ)
阿加波智(アカハチ)君
乎波智(ヲハチ)君
布利比賣(フリヒメ)命

から「伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)」を振り出しに「振姫」の父「乎波智君」へと続く家系が「三尾君」一族の家系であることを推察することが出来ます。

では、「三尾君」の一族はどこに住んでいたのでしょうか。

これについては研究者によって幾つかの説が出されています。

1 「近江説」
「近江説」は「日本書紀」に記されている「継体天皇」の出生地「近江国高嶋郡三尾」です。

Takasimakamoirari11 現在の住所では「滋賀県高島市三尾里」付近と言われています。
「三尾里」周辺には、継体天皇の父「彦主人王(ひこうしおう)」の墓と言われる「田中山王塚」や豪華な副葬品が出土した「鴨稲荷山古墳」などの古墳があり、「三重生(みおう)神社」や「水尾神社」などの継体天皇にまつわる神社が点在しています。
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2「越前説」
「越前説」は古代官道「北陸道」の駅家「三尾駅」です。
駅家は律令制の整備と共に都と地方を結ぶ官道に配置された公務旅行者に馬や宿舎を提供した所で約16キロごとに置かれたそうです。

さて、この「三尾駅」は「水尾郷」とも言われ、現在の住所では「福井県あわら市御簾ノ尾(みすのお)或いは隣接する「中川」」付近と推測されています。
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「御簾ノ尾」は「三国港」につながる「竹田川」中流域の右岸に位置し、東の山稜部は「三国真人」一族の墓と言われる「横山古墳群」です。
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Tennoudou44_1 そして、「竹田川」の上流には「継体天皇」を祀る「横山神社」や「継体天皇」の宮跡が在ったという「女形谷」・「天皇堂」などの「継体天皇」ゆかりの地「坪江」地域に接しています。
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また、福井市の西部、足羽川と日野川の合流地には「角折」の地名が残っていて「角折神社」(福井市角折町)が鎮座しています。
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「角折」地区の日野川対岸(左岸)の小高い山稜には「継体天皇」と「稚子媛」を祀った式内社「與須奈(おすな)神社」(福井市下市町)があります。
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そして「角折」地区の日野川上流部右岸、福井市と鯖江市の境には「三尾野」と呼ばれる地区があります。
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「三尾野」の北には「三尾君」を祀っていたと言われる「延喜式」に記された式内社「直野(なおの)神社」(福井市南居町の「大己貫(おおむなち)神社」に合祀)があったようです。
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なお、一説には「日野川」本流は現在より東の山一つ越えた現在の「朝六つ川(旧浅水川)」或いは国道8号線付近を流れていたとも言われています。
日野川の氾濫域を避けるために南の「丹生郡」から「三尾野」を通り、北の「足羽郡」に抜ける「古代北陸道」が通っていたと言う説もあり、「丹生平野」と「福井平野」を結ぶ要地であったと推測されるそうです。
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3「三尾氏北進説」
「三尾氏北進説」は「三尾氏磐城別(みおのうじいわきわけ)」の妹「水歯郎媛(みずはのいらつめ)」が「垂仁天皇」の子「景行天皇」の妃となったと「古事記」に記されている事から「三尾氏」一族は都に本拠地を置きながら、古代北陸道を通って北上して能登半島の「羽咋」まで勢力を広げ、徐々に本拠地を移動させて行ったという説です。



その他にも研究者によっていろいろな説が出されています。

なお、「三尾氏」については「継体天皇」の時代以後「日本書紀」や「古事記」に記述がなく、150年後の天武13年(西暦684年)に天武天皇が定めた「八色の姓(やくさのかばね)」の最上位の位「真人」(継体天皇の近親者およびそれ以降の天皇・皇子の子孫が対象になったらしい)にも「三尾氏」の名前は登場しません。

このことから「氏族名を変えた」あるいは「直系の子孫が絶えた」または「中央政権との関わりが絶えた」など諸説がささやかれています。

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2007年7月 7日 (土)

継体天皇の諡号

一般的に使われている歴代天皇の天皇名は死後に漢語風に付けられた諡(おくりな)「漢風諡号」や「追号」です。

このうち、「継体天皇」を含む「神武天皇」から「持統天皇」および「元明・元正天皇」の歴代天皇の「漢風諡号」は大友皇子の曾孫と言われる「淡海三船」によって天平宝字6年(西暦762年)から8年に架けてまとめて付けられたと言われています。

そのほかにも天皇の呼び名は6世紀半ばから付けられたのではないかと言われる日本風の諡「和風諡号」や生存中の名前「諱(いみな)」などもあります。

「継体天皇」の場合は、「継体天皇」が三船によって付けられた「漢風諡号」です。
「継体」の意味については「嗣ぐ」ではなく「継ぐ」の文字が使われていることから「血の繋がりのない継承」を表しているのではないかとの説や「正統なあとつぎ」であることを表しているなど諸説ささやかれています。

また「日本書紀」に記されている「男大迹(おおど)尊」や「彦太(ひこふと)尊」或いは「古事記」に記されている「袁本杼命(おほどのみこと)」の名前は生存中の名前「諱」だと言われています。
因みに第15代「応神天皇」から第26代「継体天皇」までは「諱」が記載されていて、それ以外は後世に付けられた「和風諡号」や「追号」ではないかと言われています。

「和風諡号」の例として、欽明天皇の場合は「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)」(日本書紀の記述)がそれにあたるようです。


また、「天皇」という主君号については、持統3年(西暦689年)に施行されたらしい「飛鳥浄御原令」によって定められたと言われています。

しかし、「飛鳥池遺跡」から出土した天武6年(西暦678年)の記載がある木簡と一緒に「天皇」の文字が記載された木簡も出土したことからもっと以前から使われていたのではなかとも言われています。

因みに「天皇」という主君号を最初に使ったのは中国唐時代の皇帝「高宗(こうそう)」と言われ、西暦674年に「皇帝」から「天皇」に主君号を変えたそうです。

「天皇」という言葉は「道教」の言葉で「天」は「全て」、「皇」は「輝かしいのも」を表していると言われています。

以上のことから「継体天皇」は生存中には「天皇」ではなく「王」と呼ばれていた可能性があることから「オオドオウ」と呼ばれていたのでしょうか?



そのほかに国の名前である国号「日本」という呼び方が定まったのは、大宝元年(西暦701年)に制定された「大宝律令」だとされています。
これ以前には「倭国」或いは「倭」が用いられていたようです。

この事については大宝2年に粟田真人を始めとする遣唐使が派遣され、翌年(703年)に唐の皇帝に国号が「日本」に改められたことを伝えたとされています。

しかし、唐には誤解されて伝わったようで、その後も「倭国」のまま使用されたり、「日本国」が別の国として取り扱われていたりしたそうです。


また、「日本」の呼び名は「日本」と書いて和訓読みで「やまと」と呼んでいたようです。

和音(呉音)読みでは「にっぽん」或いは「にほん」ですが、漢音読みで「じっぽん」と発音していたようで、中国から西洋に伝わって「英語」では「ジャパン」と呼ばれるようになったようです。


なお、上記に記した国号「日本」や「天皇」の号についての成立時期については、研究者によっていろいろな説が発表されています。
これからの研究や発掘で新事実が明らかになるかもしれません。

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