« 継体天皇と足羽山古墳群 | トップページ | 継体天皇と三尾君(みおのきみ) »

2007年7月 7日 (土)

継体天皇の諡号

一般的に使われている歴代天皇の天皇名は死後に漢語風に付けられた諡(おくりな)「漢風諡号」や「追号」です。

このうち、「継体天皇」を含む「神武天皇」から「持統天皇」および「元明・元正天皇」の歴代天皇の「漢風諡号」は大友皇子の曾孫と言われる「淡海三船」によって天平宝字6年(西暦762年)から8年に架けてまとめて付けられたと言われています。

そのほかにも天皇の呼び名は6世紀半ばから付けられたのではないかと言われる日本風の諡「和風諡号」や生存中の名前「諱(いみな)」などもあります。

「継体天皇」の場合は、「継体天皇」が三船によって付けられた「漢風諡号」です。
「継体」の意味については「嗣ぐ」ではなく「継ぐ」の文字が使われていることから「血の繋がりのない継承」を表しているのではないかとの説や「正統なあとつぎ」であることを表しているなど諸説ささやかれています。

また「日本書紀」に記されている「男大迹(おおど)尊」や「彦太(ひこふと)尊」或いは「古事記」に記されている「袁本杼命(おほどのみこと)」の名前は生存中の名前「諱」だと言われています。
因みに第15代「応神天皇」から第26代「継体天皇」までは「諱」が記載されていて、それ以外は後世に付けられた「和風諡号」や「追号」ではないかと言われています。

「和風諡号」の例として、欽明天皇の場合は「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)」(日本書紀の記述)がそれにあたるようです。


また、「天皇」という主君号については、持統3年(西暦689年)に施行されたらしい「飛鳥浄御原令」によって定められたと言われています。

しかし、「飛鳥池遺跡」から出土した天武6年(西暦678年)の記載がある木簡と一緒に「天皇」の文字が記載された木簡も出土したことからもっと以前から使われていたのではなかとも言われています。

因みに「天皇」という主君号を最初に使ったのは中国唐時代の皇帝「高宗(こうそう)」と言われ、西暦674年に「皇帝」から「天皇」に主君号を変えたそうです。

「天皇」という言葉は「道教」の言葉で「天」は「全て」、「皇」は「輝かしいのも」を表していると言われています。

以上のことから「継体天皇」は生存中には「天皇」ではなく「王」と呼ばれていた可能性があることから「オオドオウ」と呼ばれていたのでしょうか?



そのほかに国の名前である国号「日本」という呼び方が定まったのは、大宝元年(西暦701年)に制定された「大宝律令」だとされています。
これ以前には「倭国」或いは「倭」が用いられていたようです。

この事については大宝2年に粟田真人を始めとする遣唐使が派遣され、翌年(703年)に唐の皇帝に国号が「日本」に改められたことを伝えたとされています。

しかし、唐には誤解されて伝わったようで、その後も「倭国」のまま使用されたり、「日本国」が別の国として取り扱われていたりしたそうです。


また、「日本」の呼び名は「日本」と書いて和訓読みで「やまと」と呼んでいたようです。

和音(呉音)読みでは「にっぽん」或いは「にほん」ですが、漢音読みで「じっぽん」と発音していたようで、中国から西洋に伝わって「英語」では「ジャパン」と呼ばれるようになったようです。


なお、上記に記した国号「日本」や「天皇」の号についての成立時期については、研究者によっていろいろな説が発表されています。
これからの研究や発掘で新事実が明らかになるかもしれません。

« 継体天皇と足羽山古墳群 | トップページ | 継体天皇と三尾君(みおのきみ) »

コメント

最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいと思います。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く収集し表した、「日本大文典」という印刷書籍です。
広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の古代からの日本の歴史についての考を知ることができるのでしょうか。もう既に見ていますか。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 継体天皇の諡号:

« 継体天皇と足羽山古墳群 | トップページ | 継体天皇と三尾君(みおのきみ) »