越前における「山辺の道」
古墳時代における古代道は川や沼・林などが多く存在した平野部よりも湧き水がある山麓の見通しの良い、安定した場所を中心に発達したと言われています。
このような古代道の代表的な例として奈良県にある「奈良市」から「天理市」を通り「桜井市」や「明日香村」に通じる「山辺の道」が有名です。
福井県においても古墳時代の古代道が幾つか存在していたようです。
研究者によれば「日本書紀」などの記述から琵琶湖の西岸を通り「若狭及び敦賀」へ至る道をはじめ、「敦賀」から「元比田」まで当時存在した砂浜を中心とした海岸の道などが知られています。
内陸部では「坂井市丸岡町」から「越前市粟田部」を通り「南越前町」に至る山沿いの道が存在したと言われています。
この道は戦国大名「朝倉氏」によって拡張整備されたことから「朝倉街道」と呼ばれていますが古くから存在した古代道を大部分再利用したと言われています。
研究者によれば、この道沿いには「延喜式」に記された神社や古代寺院跡が多く分布し、大規模な古墳群も幾つか分布しています。
また、今から1500年前に即位した「継体天皇」の宮跡との伝承が残る地域も多く分布しています。
このような事からこの道を「越国 山辺の道」あるいは「越前 山辺の道」と言うことができるようです。
福井県教育委員会が発行している「福井県歴史の道調査報告書 第4集 朝倉街道・鯖街道」によれば、寛文年間に書かれた「越藩拾遺録」には「東は丸岡より鳴鹿へ至りこの川を越え松岡へ出、下吉野を経て小幡坂を越え、阿波カ原より成願寺渡村にて川を越え東郷へ出、榎木坂を越え粟田部・五箇へかかり牧谷坂を越えて新河原の渡しより鯖波へ出る」と「朝倉街道」について書かれているそうです。。
なお、「朝倉街道」は幾つかの脇街道を持ち、「古北陸道」と合わせて「越前」の交通を支えていたようです。くわしくは「福井県歴史の道調査報告書」をご参照ください。
さて、このような事から1500年前、継体天皇が即位する前の青年期を過ごし通った道であり、即位のために都に向かった道であろう「越前 山辺の道」を辿ってみると 都からの使者と会見したと言われる「横山古墳群」を北に望む「天皇堂跡」(坂井市丸岡町女形谷)から山沿いに南に向かいます。
母「振姫」の故郷「高向」(坂井市丸岡町高田)や母「振姫」の祖先が眠る「丸岡古墳群(六呂瀬山古墳群を含む)」がある山麓を通って「鳴鹿」で「九頭竜川」を渡ります。
「松岡古墳群」の麓を通って山沿いを南下します。
成願寺山の麓にある継体天皇の親族の血を引くとも言われる古代豪族「生江(いくえ)氏」の本拠地「酒生(さこう)地区」を通って「足羽川」を渡ります。
「振姫」の祖先「伊波知和希命(いわちわけのみこと)」を祀る式内社「分神社」(脇三ヶ町))がある東郷地区の山沿いを通ります。
古代「日野川」の氾濫域を避けて「榎峠(榎坂)」を越えて「三里山」の麓へ向かいます。
「三里山」の東の山沿いを進むと継体天皇ゆかりの地「粟田部」に至り、紙の神様を祀る「大滝神社」がある「五箇地区」を抜けて、さらに進むと「日野山」の北麓に広がる継体天皇ゆかりの地「味真野」に至ります。
この先は「日野山」の稜線にある「牧谷峠」を越えたのか、それとも「日野山」を迂回したのかは解りませんが「日野川」を渡って南条山地の稜線の道を越えて「元比田」から海岸沿いの砂浜を「敦賀」へ向かった。
或いは丹生山地の山稜の道を越えて「河野」或いは「甲楽城(かぶらき)」の浦に至り、海岸沿いに南下して「元比田」を経て「敦賀」へ向かったのかもしれません。
もちろん、当時から重要な交通路であった河川や海を船で向かったとも考えられますが、安全面から言えば、やはり陸路を使った可能性が高いのではないでしょうか。
さて、この「越前 山辺の道」の中で「榎峠」から「牧谷峠」にかけての街道周辺には
万葉ロマンの里 「味真野」地域
和紙の里 「粟田部・五箇」地域
佐々木小次郎の里 「下坂下」地区
越前漆器の里 「河和田」地域
など魅力的なポイントがたくさんあります。
このブログの過去の記事などを参考に歴史ロマンに溢れる散策をお楽しみください。