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2008年1月26日 (土)

番外編 「紫式部」と「越前国府」

長徳2年(996年)「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府に下向しました。

Img_6368 国府での生活は一年半余りの短い間でしたが「紫式部」に雪深い遠方の地との印象を残しました。
そして十年余りのちに書かれた「源氏物語」の「浮舟の巻」において、「たけふの国府」を遠方の地の例えとして登場させています。

「越前国府」は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近に在ったと言われています。

国府の遺構は市街地の地下にあるために現在も確認されていません。

しかし、9世紀初頭頃に歌われていた古代歌謡「催馬楽(さいばら)」には「太介不乃己不(たけふのこふ)」という表現があります。
また、930年頃の「和名類聚抄(和名抄)」には「越前国府丹生郡にあり」と記しています。
このことから越前国府は丹生郡の「太介不(たけふ)」の地に在ったことが解ります。

また、国府には「総社」や「国分寺」が置かれ、「国府」や「府中」とも呼ばれたと言われています。

このようなことから古くから交通の要所であったこと、古くには日野川左岸が「丹生郡」に属していたこと、「たけふ」の地名や「総社」・「国分寺」の名を持つ寺社があること、中世には「府中」と呼ばれたことなどから現在の越前市中心市街地に国府が在ったと推測することができるそうです。
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また、「市役所」付近にあった「府中城跡遺跡(戦国時代)」などの調査で奈良・平安時代の地層から「国大寺」・「国寺」・「大寺」・「足羽」と書かれた墨書土器や古代瓦が出土したことからもこの地に国府が在ったと推測されるそうです。(武生公会堂記念館にて展示・無料)
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その他にも周辺地域に国府で必要とされた「和紙」や「漆器」・「土器」・「瓦」などを供給するための生産拠点があり、これらは「越前和紙(五箇)」や「越前漆器(河和田)」・「越前焼(織田・宮崎)」などとして現在まで受け継がれています。
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Kehizingu111 なお、最初の越前国府は福井県敦賀市に置かれたという説もあるそうです。
これは越前国の入口の地にあること、古代から関所や重要な港であること、越前一の宮「気比神宮」があること、官道「北陸道」沿いの式内社「志比前神社」付近に「道の口」という地名が残ることなどから最初の国府があったのではないかと言われているそうです。

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2008年1月25日 (金)

番外編 「源氏物語」と「たけふ」

今から千年前の平安時代中頃、「紫式部」によって書かれた「源氏物語」の「浮舟の巻」には、「たとへ たけふの国府にうつろい給ふとも 忍びて参り来なんを、なほなほしき身ほどはかかる御為こそいとほしく待れ」と言う表現を見ることが出来ます。

Img_4297 この中に取り上げられている「たけふの国府」とは「越前国」の国府のことで、当時から「たけふ」と言う地名で呼ばれていたそうです。
この「たけふ」の地は現在の福井県越前市の中心市街地周辺に相当する地域で、東側を日野川左岸に接した日野川の自然堤防上にあったようです。

「たけふ」は漢字で「太介不」と書かれたようで8世紀末から9世紀初め頃に歌われた古代歌謡集「催馬楽(さいばら)」には「見知乃久知 太介不乃己不尓 和礼波安利止(みちのくち たけふのこふに われはありき)」との表現が残っているそうです。

しかしながら、中世に入って一般には「府中」と言われるようになり、「竹生」や「武府」などと表記された「たけふ」の地名が一部で使われるのみとなったそうです。

時代が変わり、明治2年に「府中町」から昔の地名「たけふ」を「武生」と表記して「武生町」となり、平成の大合併で「今立町」と合併して「武生市」から「越前市」に変わるまで「たけふ」の地名が使い続けられました。

Img_6322 「源氏物語」の著者「紫式部」は、長徳2年(996年)に越前守に任じられて越前国へ下向した父「藤原為時」と共に、国府が置かれた「たけふ」へ来ました。

1年半余りの短い期間でしたが、雪深い遠方の地での体験が「源氏物語」の中にも生かされていると言われています。


「武生」へは
JR北陸本線「武生駅」下車

車では
北陸自動車道「武生インター」から西へ約1.5キロ
または、国道8号をご利用ください。

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2008年1月19日 (土)

番外編 紫式部と日野山

Img_6293 越前国府の南東にそびえる「日野山」は、養老2年(718年)に「泰澄」によって開山されたと言われ、越前五山(白山・越知山・文殊山・蔵王山・日野山)の一つです。

古文書には「ひのだけ(日野岳)」や「おたけやま(小健山・小岳山)」或いは「ひながだけ(雛ヶ岳・日永岳)」などの名前で登場します。

古くには標高795mの山頂に南社・中社・北社の三つの社があり、「不動明王」・「文殊菩薩」・「観音菩薩」が祀られ「三所権現」とも呼ばれていたそうです。

また、山麓にある「日野神社」は「継体天皇」とその皇子「安閑天皇」「宣化天皇」を祀り、奥社となる山頂の社にもそれぞれの天皇が祀られていたそうです。


Img_4377 さて、今から千年余り前の長徳2年(996年)越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府に遣って来た結婚前の「紫式部」はこの地で約1年半暮らしました。

このときに詠んだ和歌が「むらさき式部集」にいくつか収められています。
この中に雪に覆われた「日野山」を見て詠んだ歌があります。

暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらる

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日や

と歌っています。

この和歌は、暦に初雪の降る頃と書かれた日に近くの雪に覆われた日野岳を見て、都の小塩山にも雪が降っているのだろうかと都を懐かしんだ歌だそうです。

雪深い厳しい越前の冬を過ごした「紫式部」は、2回目の冬を迎える前に越前国府を後にして都へ戻ったそうです。


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2008年1月14日 (月)

番外編 滅び行く古代からの道

越前国の国府が置かれた「越前市」周辺には、千年以上も使い続けられた古道が幾つか存在します。
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これらの道は時代と共に主街道から脇街道へと移り変わりましたが、昭和30年ごろまでは生活道路として利用されていたようです。

Kinometouge2 代表的な主街道は「北陸道」と言われる道です。
この道は国府から南へ下り、「湯尾峠」を越えて「今庄」から西へ「鹿蒜」・「新道」地区へ向かいます。
「新道」からは南へ進んで「木ノ芽峠」を越えて「敦賀」、そして琵琶湖西岸へと進み都へ至る道でした。

しかし、「木ノ芽峠」が整備される前は、「新道」地区から西へ向かい「山中峠」を越えて海岸沿いの「元比田」「大比田」へ下り、「敦賀」へ向かう「山中越え」と言われる道が主街道とされていたそうです。

現在、「山中トンネル」の山上にある「山中峠」は今庄側トンネル入口手前から左に入る林道を約500m登り、峠入口の標識のある左の谷に進んで沢沿いの細い山道を約700m行った所にあります。
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峠は緩やかな坂の上部にお地蔵さんがひっそりと祀られている祠があります。
しかし、峠から海岸部へ下る道は土砂崩れと倒木で道筋を見つけることが困難な状況になっています。
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また、国府の南に位置する「大塩」地区からは、通称「塩の道」と言われる道がありました。
この道は谷間の奥地にある「瓜生野」集落から集落左手の尾根沿いを登り、「菅谷峠」をl越えて「旧河野村菅谷」へ下って谷沿いを南へ進み、海岸沿いの「大谷」「元比田」集落へ至る道」です。
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Img_4960 この「塩の道」は海岸の集落で作られた「塩」を国府に運ぶために使われていた古代からの道だそうです。


Img_5331 現在は峠の南に位置する「ホノケ山」に登るための登山道として使われていますが、尾根沿いに残る深いU字形の道は千年以上も人の足によって踏み固められた痕跡だそうです。


その他にも「越前若狭 歴史街道」の著者「上杉喜寿」氏によれば、「大塩」地区の隣「春日野」地区にある「円福寺」左手の尾根に過って在った神社の東側を尾根沿いに伸びる深いU字形の道が、約千年前に都に戻る途中に「たこの呼坂」に立ち寄るために「紫式部」一行が通った道だそうです。
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この道は「春日野」から尾根沿いに「武生トンネル」上にある「具谷峠(七曲峠或いは七万曲とも言う)」へ向かい、「旧河野村具谷」へ下って「具谷」集落南の丸い山稜を持つ「山王山」の麓にあるお地蔵さんの祠の前から祠の上に続く尾根伝いの古道(一部林道で途切れる)を登り、「山王社」跡がある「山王峠」を越えて「河内」集落へ下ります。
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「河内」集落からは河野川沿いに上流へ約1キロ進んで南西に伸びる谷に入る林道を約500m行きます。
この付近に右側林道下の沢が二手に分かれる所であり、ここを右手の沢に入って沢沿いに約2.5キロ進むと「蛸(たこ)坂」の峠に達します。
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切通しになった峠を越えて南へ下る「蛸(たこ)坂」(国道8号で途切れる)を下って海岸沿いの「大谷」集落へ通じる道だそうです。
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この「たこ坂」へ通じる道は倒木や土砂崩れ・土砂採取・道路などで何箇所かで通行不能になっていますので注意してください。


Img_6141 「具谷峠」から約600m手前付近の尾根が約300m土砂採取のために深く削られているために古道が寸断しています。



Img_6172 また、「具谷峠」から「具谷」集落へ下る道も土砂崩れと倒木のために道の痕跡が不明になっています。



Img_6188 その他にも「たこ坂」までの沢沿いの道も倒木と荒廃のために通行が困難になっています。



Img_5889 それから「たこ坂」は国道8号(旧大谷第1トンネル敦賀側入口横)から「大谷」集落へ斜めに下る道が国道拡張工事などでルートが不明になっています。



なお、「紫式部」が通ったとされる「蛸(たこ)の呼坂」への道について推定ルートを「上杉喜寿」氏の著書を参考にして下記の地図に示します。

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2008年1月 1日 (火)

番外編 「紫式部」が通った道

Img_4376 2008年は平安時代の女流作家とも言うべき「紫式部」が「源氏物語」を書いて千年の記念の年です。

紫式部は長徳2年(996年)に越前国司に任命された父「藤原為時」と共に越前国の国府に来ました。

しかし、翌年には藤原宣孝との結婚の為に都へ戻ったと言われています。

さて、都から越前へは大津から船で琵琶湖西岸沿いを進み、塩津付近から陸路を「敦賀」へ向って越前国に入り、木ノ芽峠を越えて国府(現在の越前市)へ入ったそうです。

一方、帰路は「かへる山」を越えて「たこの呼坂」を通って「敦賀」へ向かい、琵琶湖東岸を通って都へ戻ったと推測されています。

これらのことは、紫式部が旅の途中に詠んだとされる歌をもとに推測されているそうです。

この中で、紫式部が都へ戻るときのコースについても幾つかの説が発表されています。

主要な説は官道であった北陸道を進み「木ノ芽峠」を越えて「越坂」から「田結」へ抜ける「田越坂」を通って敦賀へ向かったと言う説です。

他にも、旧官道であった「山中峠」を越えて海岸沿いの「大谷」或いは「元比田」に下って、陸路または船で「敦賀」へ向かったと言う説や国府の港であった「河野」から船で帰ったと言う説などがあります。

「越前若狭 歴史街道」や「越前若狭 続山々のルーツ」・「越前若狭 峠のルーツ」などの著者「上杉喜寿」氏は旧河野村大谷付近の地名に「たこ谷」や「たこ坂」の地名が現在も残っていることからここを通る昔からの道を紫式部が通った道だと推測しています。

この道は昭和37年頃の国土地理院の地図を見ると「山中峠越え」や「菅谷峠越え(塩の道)」などの「かへる山」と呼ばれてた山地付近にある多くの山道と共に点線で記載されているそうです。

この「たこ坂越え」の道は国府から南へ進み、「春日野」から山地に入り「具谷峠(七曲峠或いは七万曲とも言う)」(新武生トンネル上にある)を越えて「具谷」集落を通り「山王山」の西側の山王峠(「日吉神社跡」や「馬つなぎ石」がある)を越えて「河内」集落に下ります。
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「河内」から「菅谷」へ南下する道を約1キロ進んだ地点から南西に入る谷へ入り、「たこ坂」を「大谷」集落に向かって南へ斜めに下る道だそうです。
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現在は使用されていない為に笹や植林によって道が荒廃している箇所も多く、よく見るとU字形に凹んでいるので道があったのではと推測できる状態のところもあります。

現在、「たこ坂」があった国道8号の旧大谷第一トンネル付近(「道の駅河野」から南へ約500m)のドライブイン跡に「たこ坂と紫式部」についての説明看板が建てられています。
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