番外編 「紫式部」と「越前国府」
長徳2年(996年)「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府に下向しました。 国府での生活は一年半余りの短い間でしたが「紫式部」に雪深い遠方の地との印象を残しました。
そして十年余りのちに書かれた「源氏物語」の「浮舟の巻」において、「たけふの国府」を遠方の地の例えとして登場させています。
「越前国府」は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近に在ったと言われています。
国府の遺構は市街地の地下にあるために現在も確認されていません。
しかし、9世紀初頭頃に歌われていた古代歌謡「催馬楽(さいばら)」には「太介不乃己不(たけふのこふ)」という表現があります。
また、930年頃の「和名類聚抄(和名抄)」には「越前国府丹生郡にあり」と記しています。
このことから越前国府は丹生郡の「太介不(たけふ)」の地に在ったことが解ります。
また、国府には「総社」や「国分寺」が置かれ、「国府」や「府中」とも呼ばれたと言われています。
このようなことから古くから交通の要所であったこと、古くには日野川左岸が「丹生郡」に属していたこと、「たけふ」の地名や「総社」・「国分寺」の名を持つ寺社があること、中世には「府中」と呼ばれたことなどから現在の越前市中心市街地に国府が在ったと推測することができるそうです。
また、「市役所」付近にあった「府中城跡遺跡(戦国時代)」などの調査で奈良・平安時代の地層から「国大寺」・「国寺」・「大寺」・「足羽」と書かれた墨書土器や古代瓦が出土したことからもこの地に国府が在ったと推測されるそうです。(武生公会堂記念館にて展示・無料)
その他にも周辺地域に国府で必要とされた「和紙」や「漆器」・「土器」・「瓦」などを供給するための生産拠点があり、これらは「越前和紙(五箇)」や「越前漆器(河和田)」・「越前焼(織田・宮崎)」などとして現在まで受け継がれています。
なお、最初の越前国府は福井県敦賀市に置かれたという説もあるそうです。
これは越前国の入口の地にあること、古代から関所や重要な港であること、越前一の宮「気比神宮」があること、官道「北陸道」沿いの式内社「志比前神社」付近に「道の口」という地名が残ることなどから最初の国府があったのではないかと言われているそうです。