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2008年1月 1日 (火)

番外編 「紫式部」が通った道

Img_4376 2008年は平安時代の女流作家とも言うべき「紫式部」が「源氏物語」を書いて千年の記念の年です。

紫式部は長徳2年(996年)に越前国司に任命された父「藤原為時」と共に越前国の国府に来ました。

しかし、翌年には藤原宣孝との結婚の為に都へ戻ったと言われています。

さて、都から越前へは大津から船で琵琶湖西岸沿いを進み、塩津付近から陸路を「敦賀」へ向って越前国に入り、木ノ芽峠を越えて国府(現在の越前市)へ入ったそうです。

一方、帰路は「かへる山」を越えて「たこの呼坂」を通って「敦賀」へ向かい、琵琶湖東岸を通って都へ戻ったと推測されています。

これらのことは、紫式部が旅の途中に詠んだとされる歌をもとに推測されているそうです。

この中で、紫式部が都へ戻るときのコースについても幾つかの説が発表されています。

主要な説は官道であった北陸道を進み「木ノ芽峠」を越えて「越坂」から「田結」へ抜ける「田越坂」を通って敦賀へ向かったと言う説です。

他にも、旧官道であった「山中峠」を越えて海岸沿いの「大谷」或いは「元比田」に下って、陸路または船で「敦賀」へ向かったと言う説や国府の港であった「河野」から船で帰ったと言う説などがあります。

「越前若狭 歴史街道」や「越前若狭 続山々のルーツ」・「越前若狭 峠のルーツ」などの著者「上杉喜寿」氏は旧河野村大谷付近の地名に「たこ谷」や「たこ坂」の地名が現在も残っていることからここを通る昔からの道を紫式部が通った道だと推測しています。

この道は昭和37年頃の国土地理院の地図を見ると「山中峠越え」や「菅谷峠越え(塩の道)」などの「かへる山」と呼ばれてた山地付近にある多くの山道と共に点線で記載されているそうです。

この「たこ坂越え」の道は国府から南へ進み、「春日野」から山地に入り「具谷峠(七曲峠或いは七万曲とも言う)」(新武生トンネル上にある)を越えて「具谷」集落を通り「山王山」の西側の山王峠(「日吉神社跡」や「馬つなぎ石」がある)を越えて「河内」集落に下ります。
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「河内」から「菅谷」へ南下する道を約1キロ進んだ地点から南西に入る谷へ入り、「たこ坂」を「大谷」集落に向かって南へ斜めに下る道だそうです。
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現在は使用されていない為に笹や植林によって道が荒廃している箇所も多く、よく見るとU字形に凹んでいるので道があったのではと推測できる状態のところもあります。

現在、「たこ坂」があった国道8号の旧大谷第一トンネル付近(「道の駅河野」から南へ約500m)のドライブイン跡に「たこ坂と紫式部」についての説明看板が建てられています。
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