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2008年2月10日 (日)

番外編 「紫式部」と「たこの呼坂」

長徳2年(996年)に越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国に下向した「紫式部」は1年半余りを過ごした越前国府を後にして都に戻ったと言われ、都に帰る途中に詠んだとされる歌が「紫式部集」に記されています。

この中の一つに

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉よりいと多く出で来れば

ましもなほ 遠方人(をちかたびと)の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂

と詠んだ歌があります。(底本 陽明文庫蔵本参照)

Img_6188 内容は、都へ向かう途中、かえる山を越えるところに呼坂と呼ばれているとても難儀な険しい道で輿も担ぎ辛く恐ろしいと思っているとき、木の葉の中から猿がたくさん現れた

猿よ、お前もやはり遠方人として声をかけ合っておくれ、
私の越えあぐねているこの谷の呼坂で

と心細い帰路の心境を詠んでいるそうです。(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」参照)


この中に登場する「呼坂(よびさか)」がどこにあるのかについては幾つかの説が出されています。

一般的には官道「北陸道」にある急峻な谷坂、或いは古北陸道にある山中峠付近とされていますが、写本の中の「定家本」や古本の一部には「たごの呼坂」と記されていることから「たご」或いは「たこ」という地名のところとも言われています。

Img_6468_2 「南條郡誌」によれば、「かえる山」を通る官道「北陸道」沿いにあるとして、「木ノ芽峠」を越えて「敦賀浦」手前の山地にある「越坂(おっさか)」から「越坂峠」を越えて「田結(たい)浦」に下る「田越坂」をこの「呼坂」としているそうです。
現在、「田越坂」は田結の谷間に砂防提が造られ、永らく使用されず荒れ果てています。
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Takosaka22 一方、上杉喜寿氏の著書「越前 若狭 歴史街道」によれば、「かえる山」は昔の「鹿蒜(かえる)郷」を含む広い範囲の山の総称とされることから、「鹿蒜郷」に隣接する「大谷浦」地籍に残る「蛸(たこ)谷」から「大谷浦」に下る坂を「たこの呼坂」としています。
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また、「万葉集」に登場する「手児の呼坂」(静岡県興津と由比町の間にある峠)に関する歌

「東道の手児の呼坂越えかねて 山にか寝むも宿りはなしに」

を「紫式部」は知っていて、同じ「呼坂」の名前を持つ「たこの呼坂」に興味を持ったのではないかとしています。

因みに「呼坂」とは、野辺で働く彼女に今夜遊びに行くと言う「夜這い(よばい)」の合図を交わしたところだそうです。

なお、「越前国府」から「たこの呼坂」に至るルートについては、このブログの過去の記事
番外編 滅び行く古代からの道」をご参照ください。

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2008年2月 9日 (土)

番外編 「紫式部」と「「雪」

Img_6446 今から約千年余り前に、「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府へ下向しました。

のちに「紫式部」が自ら詠んだ歌を集めたと言われる「紫式部集」には、越前国府で詠んだと見られる歌が記されています。

この中で

降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて
「なほ、これ出でて見たまへ」といへば

ふるさとに かへるの山の それならば 
               心やゆくと ゆきも見てまし


と詠んでいます。

内容は、雪の日が続き、うっとうしくうんざりと思っている雪を、皆は雪掻きをして山のようになったところに登って
「雪がおいやでも、この雪山を縁側に出て御覧なさいませ」と誘っているので

「故郷の都へ帰るという名のある鹿蒜(かえる)山の雪の山なら、気が晴れるかと出かけて行って見もしましょうが」

(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」 参照)

と応えたというようなことだそうです。

都で育った「紫式部」にとって、雪に閉ざされる越前の冬はゆうつな日々であったようです。

さて、この歌の中に登場する「かえる山」は「越前国府」と「敦賀」の間にある山地で、昔の「鹿蒜(かえる)村」一帯(現在の南越前町南今庄地域)の山の総称だといわれています。
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この一帯の山中には官道「北陸道」にある「木ノ芽峠」や古北陸道にある「山中峠」などがあり、都に帰るときにはこれらの峠を通ったようです。

現在でも「JR北陸本線」や「北陸自動車道」はこの一帯の山地を通過しています。

なお、平安時代の気候は前半までが中世温暖期(8世紀から10世紀)にあたり、後半から徐々に寒くなってきたと推測されているようなので、現在より少し寒かったかも知れません。
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2008年2月 3日 (日)

番外編 「紫式部」と「越前国府」続編(1)

平安時代中期の長徳2年(996年)に結婚前の「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府が在った「たけふ」の地に下向しました。

Img_4297 国府が在った「たけふ」の地は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近だと言われています。
しかし、国府遺構が発見されていないためにどこの場所に存在したか判明していません。

「たけふ」の地は律令制が崩壊して国府も衰退しましたが、貴族に代わって武士の時代になっても「守護所」が置かれて越前国の政治・経済の中心地として発展したそうです。

江戸時代に入り、越前国の中心地は「福井」に移りましたが、徳川家康の信任が厚い「本多富正」が「府中」と呼ばれていた「たけふ」周辺を治めて、街づくりに努めたために衰退することはありませんでした。

この間、幾度かの戦乱に見舞われました。
しかし、国府を中心に発展した街は戦国時代末期から江戸時代初期に一部造りかえられましたが今日まで続いているそうです。

さて、国府の所在地については街の中心を南北に通る「北陸道」や周辺河川と寺社地を基に諸説が提唱されています。



土塁が残る「正覚寺」(新善光寺城跡)を国庁跡とする「藤岡謙二郎」説
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「正覚寺」を国庁跡として初期の北陸道が「河濯川」付近沿いに北陸道が通っていたとする「真柄甚松」説


境内の東側に堀跡と想定される溝がある「本興寺」を国庁跡とする「斎藤 優」説
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北府(きたご)町付近に国庁跡があったとする「水野時二」説


などの幾つかの説が提唱されています。

なお、「総社」は現在地から南東約300mにある「公会堂記念館」付近に在ったと言われています。

これらの推定地については、武生市教育委員会が発行している「武生の歴史」の越前国府の推定位置図(「都市地理学の諸問題」大明堂発刊の金坂清則作成の地図より作図)を参考にした下記地図をご参照ください。

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