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2008年2月 9日 (土)

番外編 「紫式部」と「「雪」

Img_6446 今から約千年余り前に、「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府へ下向しました。

のちに「紫式部」が自ら詠んだ歌を集めたと言われる「紫式部集」には、越前国府で詠んだと見られる歌が記されています。

この中で

降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて
「なほ、これ出でて見たまへ」といへば

ふるさとに かへるの山の それならば 
               心やゆくと ゆきも見てまし


と詠んでいます。

内容は、雪の日が続き、うっとうしくうんざりと思っている雪を、皆は雪掻きをして山のようになったところに登って
「雪がおいやでも、この雪山を縁側に出て御覧なさいませ」と誘っているので

「故郷の都へ帰るという名のある鹿蒜(かえる)山の雪の山なら、気が晴れるかと出かけて行って見もしましょうが」

(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」 参照)

と応えたというようなことだそうです。

都で育った「紫式部」にとって、雪に閉ざされる越前の冬はゆうつな日々であったようです。

さて、この歌の中に登場する「かえる山」は「越前国府」と「敦賀」の間にある山地で、昔の「鹿蒜(かえる)村」一帯(現在の南越前町南今庄地域)の山の総称だといわれています。
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この一帯の山中には官道「北陸道」にある「木ノ芽峠」や古北陸道にある「山中峠」などがあり、都に帰るときにはこれらの峠を通ったようです。

現在でも「JR北陸本線」や「北陸自動車道」はこの一帯の山地を通過しています。

なお、平安時代の気候は前半までが中世温暖期(8世紀から10世紀)にあたり、後半から徐々に寒くなってきたと推測されているようなので、現在より少し寒かったかも知れません。
Kodoutizu44

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