番外編 「紫式部」と「越前国府」続編(1)
平安時代中期の長徳2年(996年)に結婚前の「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府が在った「たけふ」の地に下向しました。 国府が在った「たけふ」の地は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近だと言われています。
しかし、国府遺構が発見されていないためにどこの場所に存在したか判明していません。
「たけふ」の地は律令制が崩壊して国府も衰退しましたが、貴族に代わって武士の時代になっても「守護所」が置かれて越前国の政治・経済の中心地として発展したそうです。
江戸時代に入り、越前国の中心地は「福井」に移りましたが、徳川家康の信任が厚い「本多富正」が「府中」と呼ばれていた「たけふ」周辺を治めて、街づくりに努めたために衰退することはありませんでした。
この間、幾度かの戦乱に見舞われました。
しかし、国府を中心に発展した街は戦国時代末期から江戸時代初期に一部造りかえられましたが今日まで続いているそうです。
さて、国府の所在地については街の中心を南北に通る「北陸道」や周辺河川と寺社地を基に諸説が提唱されています。
土塁が残る「正覚寺」(新善光寺城跡)を国庁跡とする「藤岡謙二郎」説
「正覚寺」を国庁跡として初期の北陸道が「河濯川」付近沿いに北陸道が通っていたとする「真柄甚松」説
境内の東側に堀跡と想定される溝がある「本興寺」を国庁跡とする「斎藤 優」説
北府(きたご)町付近に国庁跡があったとする「水野時二」説
などの幾つかの説が提唱されています。
なお、「総社」は現在地から南東約300mにある「公会堂記念館」付近に在ったと言われています。
これらの推定地については、武生市教育委員会が発行している「武生の歴史」の越前国府の推定位置図(「都市地理学の諸問題」大明堂発刊の金坂清則作成の地図より作図)を参考にした下記地図をご参照ください。
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