番外編 「紫式部」と「たこの呼坂」
長徳2年(996年)に越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国に下向した「紫式部」は1年半余りを過ごした越前国府を後にして都に戻ったと言われ、都に帰る途中に詠んだとされる歌が「紫式部集」に記されています。
この中の一つに
都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉よりいと多く出で来れば
ましもなほ 遠方人(をちかたびと)の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂
と詠んだ歌があります。(底本 陽明文庫蔵本参照) 内容は、都へ向かう途中、かえる山を越えるところに呼坂と呼ばれているとても難儀な険しい道で輿も担ぎ辛く恐ろしいと思っているとき、木の葉の中から猿がたくさん現れた
猿よ、お前もやはり遠方人として声をかけ合っておくれ、
私の越えあぐねているこの谷の呼坂で
と心細い帰路の心境を詠んでいるそうです。(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」参照)
この中に登場する「呼坂(よびさか)」がどこにあるのかについては幾つかの説が出されています。
一般的には官道「北陸道」にある急峻な谷坂、或いは古北陸道にある山中峠付近とされていますが、写本の中の「定家本」や古本の一部には「たごの呼坂」と記されていることから「たご」或いは「たこ」という地名のところとも言われています。 「南條郡誌」によれば、「かえる山」を通る官道「北陸道」沿いにあるとして、「木ノ芽峠」を越えて「敦賀浦」手前の山地にある「越坂(おっさか)」から「越坂峠」を越えて「田結(たい)浦」に下る「田越坂」をこの「呼坂」としているそうです。
現在、「田越坂」は田結の谷間に砂防提が造られ、永らく使用されず荒れ果てています。
一方、上杉喜寿氏の著書「越前 若狭 歴史街道」によれば、「かえる山」は昔の「鹿蒜(かえる)郷」を含む広い範囲の山の総称とされることから、「鹿蒜郷」に隣接する「大谷浦」地籍に残る「蛸(たこ)谷」から「大谷浦」に下る坂を「たこの呼坂」としています。
また、「万葉集」に登場する「手児の呼坂」(静岡県興津と由比町の間にある峠)に関する歌
「東道の手児の呼坂越えかねて 山にか寝むも宿りはなしに」
を「紫式部」は知っていて、同じ「呼坂」の名前を持つ「たこの呼坂」に興味を持ったのではないかとしています。
因みに「呼坂」とは、野辺で働く彼女に今夜遊びに行くと言う「夜這い(よばい)」の合図を交わしたところだそうです。
なお、「越前国府」から「たこの呼坂」に至るルートについては、このブログの過去の記事
「番外編 滅び行く古代からの道」をご参照ください。
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