« 2008年2月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月26日 (金)

番外編 「紫式部」と「小塩山」

Img_7446 今から千年前に書かれたと言う「源氏物語」の著者「紫式部」は長徳2年(996年)夏、越前守に任命された父「藤原為時」と共に越前国の国府「たけふ」に入った。


一年半余りの短い滞在であったが、後年編さんした歌集「紫式部集」には越前国府で作った歌を残しています。

Img_6293 この中の一つに越前国府近くの名山「日野山」の雪を詠んだものがあります。




暦に、初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳という山の
雪いと深う見やらるれば、

  「ここにかく日野の杉むら埋む雪 
           小塩の松に今日やまがへる」


Img_7504 この都を想って詠まれた歌の中にある「小塩」は、平安京の南西にある「小塩山」のことだそうです。



「小塩山」の東山麓は「大原野」と呼ばれて平安時代初めには皇室の狩場として利用され、「藤原氏」の氏神を祀った奈良の「春日大社」を勧請した「大原野神社」が鎮座しいる聖地でもありました。
Img_7490 Img_7499





また、歌人として有名な「在原業平」が晩年この地に隠棲して数々の歌を詠んだところでもありました。

「紫式部」がなぜ「日野岳」と対比して「小塩山」を連想したのかについては、「在原業平」の歌を知っていて自身の心境と重ね合わせたと言う説や紫式部自身が「大原野神社」に参拝したことがあり、神聖な「小塩山」の印象が強かったなど諸説あります。

その中の一つには古北陸道が現在よりも西側の山麓を通っていたことから、「紫式部」が暮らしていた近くにあって「日野岳」に対面している国府手前の古北陸道沿いの地区「王子保(大塩保)」から連想したのではないかと言う説もあります。


Img_7487 「大原野神社」へは
JR向日町駅または阪急東向日駅から「南春日町行き」バスで約20分終点「南春日町」下車、徒歩約10分
(京都市西京区大原野南春日1152)


Ooharanotizu456

















Img_7445 越前市にある「紫式部公園」は
JR北陸線「武生駅」から約3キロ
(福井県越前市東千福町20)



Oosihotizu456



















参考文献
紫式部伝 (斎藤正昭 笠間書院)

京都の地名検証 (京都地名研究会 勉誠出版)

紫式部日記付紫式部集 (中野幸一編 武蔵野書院)

京都紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
  (坂井輝久・井上匠  淡交社)

紫式部 (清水好子 岩波書店)

続きを読む "番外編 「紫式部」と「小塩山」" »

2008年9月23日 (火)

番外編 「紫式部」と「平安京」(2)

長徳3年(997年)秋、後の「紫式部」は父「藤原為時」の赴任地「越前国」から都に戻ったと言われています。

「紫式部」が暮らしていた頃の「平安京」は都の南西部が衰退し、変わって東部(左京)及び北東部が発展してきました。
「紫式部」が生まれたのは西暦970年頃から80年頃と推測され、当時の結婚形態が妻の家へ夫が通う「通い婚」で在った事から母「藤原為信の娘」の自宅(所在地不明)で生まれたと考えられるそうです。
しかし、母は弟を出産した後に亡くなったそうです。


Img_7398_2 その後は父「藤原為時」の自宅で教養を身に付け、宮中に出仕するまで過ごしたと言われています。
この「藤原為時」宅は「平安京」の北東端、「東京極通」の東側端に沿って流れていた「中河」沿いに在った曽祖父「藤原兼輔(堤中納言)」から受け継がれた家だったそうです。
現在は「東京極通」が「寺町通り」に変わって、少し道筋が変わっていますが、「京都御苑」の東側にある「廬山寺」付近に在ったと推測されています。


「紫式部」は「越前国」から戻った後、「藤原宣孝」と結婚して娘「賢子(後の大弐三位)」を生みますが2、3年後に夫と死別しました。

その後、子育てをしながら中河の家でのちの「源氏物語」としてまとめられる短編の物語などを書き始めて次第に実力が評価されるようになってきたそうです。

寛弘2年(1005年)或いは3年頃の師走、12月29日に「一条天皇」の中宮「彰子」の女房として宮中へ出仕することになったそうです。
しかし、この頃「内裏」は火災で焼失していて、「一条天皇」は仮の内裏である「里内裏」に居たとされていて寛弘2年の出仕の場合は大内裏南東近くにあった「東三条殿」が最初の出仕場所になります。
現在地は「二条城」の東約300mの押小路通釜座付近の上松屋町付近に在ったそうです。

また、翌年の寛弘3年の場合は大内裏の北東に隣接した「一条院」になるそうです。
現在地は一条戻り橋から西へ約300mの大宮通中立売上ル付近(糸屋町の名和児童公園)になります。
Img_7378 Img_7381 Img_7379






「紫式部」は寛弘5年(1008年)に中宮「彰子」の懐妊に伴い「彰子」の父「藤原道長」の館「土御門殿」で一時期を過ごし、この時のことは紫式部が書き残した「紫式部日記」に見ることが出来ます。
「土御門殿」の現在地は「京都御苑」の寺町通沿い中央付近にある「仙洞御所」の一部を含む「清和院御門」周辺にあったそうで、「紫式部」が住んでいた旧「堤中納言」邸の斜め向かいに在ったとされています。
Img_7409 Img_7406 Img_7405






さて、「紫式部」の晩年は不明で、中宮「彰子」が内裏を後にして「上東門院」となってからも使えて、一時は娘「賢子」と共に使えていたそうです。
しかし、亡くなった時期は不明で諸説ありますが長和年間(1012から1016年)頃ではないかと言われています。

現在、北区の北大路通りを南に下った堀川通り沿いの「島津製作所紫野工場」入口付近に「紫式部」の墓と伝わる塚があります。
この塚は「小野篁(おののたかむら)」の塚と並んで置かれ、これらの墓の伝承は室町時代初めごろには存在したそうです。
Img_7397 Img_7392 Img_7396






また、真偽は別として「船岡山」南西山麓近くにある平安時代の墓地の一つ「蓮台野」の入口に位置する千本通り沿いの「千本ゑんま堂(引接寺いんじょうじ)」の境内には「紫式部」の供養等と伝承されている石塔があります。
Img_7431 Img_7433 Img_7434






Img_7384  さらに大徳寺真珠庵にある井戸の水で「紫式部」が産湯を使ったと言う伝承も伝わっているそうです。




因みにこの周辺の地名を「紫野」と言うのは「紫式部」に因んだものだとも言われています。


Murasakisikibutizu111












1 廬山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
2 紫式部墓所(北区紫野西御所田町)
3 千本ゑんま堂(上京区千本鞍馬口下ル閻魔町)
4 一条殿跡(上京区大宮通中立売上ル糸屋町)
5 土御門殿跡(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
6 法成寺跡(上京区荒神口通寺町東入ル)
7 東三条殿跡(中京区押小路通釜座西北角)
8 一条天皇陵(右京区朱山)


参考文献
紫式部伝 その生涯と「源氏物語」 (角田文衛 法蔵館) 

紫式部伝 (斎藤正昭 笠間書院)

紫式部 人と文学 (後藤幸良 勉誠出版)

京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
    (坂井輝久・井上匠  淡交社)

京都時代MAP 平安京編 (新創社編 光村推古書院)

続きを読む "番外編 「紫式部」と「平安京」(2)" »

2008年9月21日 (日)

番外編「紫式部」と「平安京」(1)

西暦996年(長徳2年)夏、「藤原為時」の娘、後の「紫式部」は父と共に住み慣れた都を離れ「逢坂峠」を越えて、北国の赴任地「越前国」へ向かったと言われています。

さて、「紫式部」が暮らした都は「桓武天皇」によって延暦12年(793年)から造営が始まった「平安京」です。

「平安京」は翌年(794年)10月22日に「桓武天皇」が新京に遷り、都の名前を「平安京」と名づけそうです。
Dainairiatozu123














「平安京」は京都盆地の東を流れる「賀茂川」と西を流れる「桂川」に挟まれた北東から南西に傾斜した地に造られました。

元来、この地は律令制に基づいて8世紀の中頃には南北及び東西方向に条里が引かれていて、これを多少変更して中国の都「長安」を参考にして都の造営を行ったそうです。
「平安京」のメインストリート「朱雀大路」は現在の「千本通」に当たり、都の正門「羅城門」は「東寺」から西へ約500mの国道171号から少し北に入った所にあった言われ、現在は小さな公園の中に「羅城門跡」と書かれた石柱建てられています。
Img_7359 Img_7363 Img_7360





また、「大内裏」の入口に当たる「朱雀門」は現在の「JR二条駅」から千本通りを北へ約250m当たりに在ったと言われ、小さな石柱が建てられています。
なお、「JR二条駅」前に発掘当時の写真や説明が書かれた案内板が設置されています。
Img_7442 Img_7444 Img_7370




「平安京ー京都 都市図と都市構造」(金田章裕編)によると「平安京」は桂川に近い南西部の低湿地帯が荒地のまま開発されず未完成の状態で月日が過ぎて、190年後の紫式部が生まれた頃には都の正門に当たる「羅城門」は倒壊し、立地条件の悪い都の西部(右京)域は衰退傾向にあったそうです。

続きを読む "番外編「紫式部」と「平安京」(1)" »

« 2008年2月 | トップページ | 2008年10月 »