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2008年10月18日 (土)

番外編 「紫式部」と「藤原道長」

Img_7446 「紫式部」が女房として仕えた中宮「彰子」は「藤原道長」の娘です。





「藤原道長」は藤原一門の墓地「木幡」に先祖供養の為に自らが創建した「浄妙寺」の南山腹に眠っています。
これは息子「頼道」が墓参した経路から推測されるそうです。
現在、「木幡小学校」グランドに「浄妙寺」の遺構が確認されているそうです。
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また、「道長」の墓地は木幡の住宅地に点在する宮内庁が管理する「宇治陵」の中の32号あるいは隣接する33号ではないかと推測されています。
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なお、「宇治陵」の総拝礼所は「木幡駅」南東約300mにある宮内庁管理事務所にある1号陵墓で、ここには「藤原氏墓所」の碑もあります。
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「藤原道長」は「藤原不比等」の次男「房前」から続く「藤原北家」の出身で父「藤原兼家」の五男(四男との説もある)として生まれました。

父「藤原兼家」は幼い「一条天皇」の外祖父として4年間「摂政」となって権力を握り、死後は摂関の地位を長男の「道隆」、次男の「道兼」が受け継ぎましたが、いづれも病気で短命に終わりました。

そして五男の権大納言「道長」に権力者になる好機が巡って来ました。
このとき、権力を争ったのが兄「道隆」の息子内大臣「伊周(これちか)」でした。

しかし、「道長」の姉である「円融天皇」の妃で一条天皇の生母「東三条院詮子」の強力な助言によって関白に次ぐ地位の「内覧」に任じられて権力者への道が開かれました。

また、「道長」の妻「倫子」は「宇多天皇」の血筋を引き、この二人の間に生まれた娘「彰子」・「妍子」・「威子」・「嬉子」は「一条」・「三条」・「後一条」・「後朱雀」の各天皇に入内しました。

話は戻りますが、権力を得た「道長」は権力を争った「伊周」の妹「定子」が一条天皇の中宮となっているにも関わらず、娘「彰子」を無理やりに中宮として入内させました。

二人の中宮が並び立っていた異常な時期に中宮「彰子」に仕えるように要請されたのが「紫式部」です。
「紫式部」の出仕に際しては「道長」の妻「倫子」が強く要請したと言われています。
「倫子」は「紫式部」と「またいとこ」の関係にあり、出仕後は「紫式部」の後見人的立場にあったそうです。

さて、「紫式部」と「道長」の関係については男女の関係が噂されていますが、真相は定かではありません。

当時、中宮への取次ぎの女房との間に男女関係が生まれることは宮中で良くあったことであり、また権力者「道長」に逆らうことは難しかったと推量されます。

一方、「紫式部日記」に「道長」が忍んできたが戸を開けずに居たと記述されていることや「倫子」との関係から男女の関係にはなかったと推量する見方もあります。

寛弘5年(1008年)9月11日、「道長」の邸宅の一つ「土御門殿」へ出産の為に里帰りしていた中宮「彰子」が「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産しました。

この「土御門殿」での暮らしは「紫式部日記」に綴られています。

このように栄華を誇った「道長」は晩年、出家して土御門殿と東京極大路をはさんで東隣に「法成寺」を創建しました。
そして万寿4年(1027年)12月4日にこの「法成寺」で生涯を終えました。
現在、京都御苑東側の上京区河原荒神口西入ルにある高校の校舎とグランドの間を通る市道の北面に「法成寺跡」の小さな石柱が建っています。
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この時代の様子については右大臣「藤原実資」が記した「小右記」や「道長」自身が記した「御堂関白記」などの日記の中に見ることが出来るそうです。


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1 廬山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
2 紫式部墓所(北区紫野西御所田町)
3 千本ゑんま堂(上京区千本鞍馬口下ル閻魔町)
4 一条殿跡(上京区大宮通中立売上ル糸屋町)
5 土御門殿跡(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
6 法成寺跡(上京区荒神口通寺町東入ル)
7 東三条殿跡(中京区押小路通釜座西北角)
8 一条天皇陵(右京区朱山)


木幡地域地図
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参考図書
日本の歴史6 王朝と貴族  朧谷 寿  集英社

日本の歴史6 道長と宮廷社会 大津 透  講談社

紫式部伝 その生涯と「源氏物語」
                 角田文衛  法蔵館

京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
           坂井輝久  井上 匠    淡交社

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2008年10月 2日 (木)

番外編 「紫式部」と「一条天皇」

Img_7446 「源氏物語」を書いたと言われる「紫式部」は第66代「一条天皇」の中宮「彰子(しょうし)」の女房として仕えていました。



「一条天皇」は第64代「円融天皇」と藤原兼家の娘「詮子(せんし)」との間に生まれた皇子で、第65代花山天皇の譲位によって寛和2年(986年)わすか7歳で即位することになりました。

そして、寛弘8年(1011年)に32歳で崩御するまでの25年間も在位して平安王朝文化を花開かせた天皇です。

陵墓は京都市内を一望できる右京区龍安寺朱山にある「龍安寺」の裏山山腹にある「一条天皇円融寺北陵」です。
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「一条天皇」は即位後、正暦元年(990年)元服し、藤原兼家の娘「定子(ていし)」を中宮としました。
中宮「定子」の女房には「枕草子」を書いた「清少納言」がいます。

長徳元年(995年)に摂関家内部の対立が起こり、藤原道長が勢力を得て天皇の側近「内覧」となりました。

この政変により長保元年(999年)に藤原道長の娘「彰子」が入内することになり、一条天皇は二人の皇后を持つことなりました。

Img_7533 しかし、一条天皇は皇后「定子」の方を寵愛しましたが、第二皇女を出産後の長保2年(1000年)12月16日に皇后「定子」は亡くなってしまいました。
皇后「定子」の葬儀は「六波羅蜜寺」で行われ、都の南東にある「鳥辺野(とりべの)」に葬られました。

現在、皇后「定子」の陵墓とされる「鳥辺野陵」は東山区今熊野泉山町の山腹にあります。
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Img_7378 その後、中宮「彰子」との間に、のちの「後一条天皇」や「後朱雀天皇」を設け、藤原道長とも程よい関係を続けました。一条天皇は火災により一時的に「一条院内裏」を離れることがありましたが、中宮「彰子」と共に「一条院内裏」で暮らしました。(一条院跡 大宮通中立売上ル糸屋町付近)

「一条天皇」は寛弘8年(1011年)病に倒れ、6月13日に冷泉天皇の第二皇子にあたる「三条天皇」に譲位して22日に崩御しました。

7月8日に北山の「岩陰」(衣笠鏡石町)の地で火葬に付されました。
遺骨は東山の鹿ヶ谷にあった「円成寺」に一時預けられましたが、9年後に現在地の「龍安寺」裏山山腹に葬られました。

「龍安寺」の所在地には当時父「円融天皇」が譲位後に出家して余生を過ごした「円融寺」がありました。
「円融天皇」は裏山山頂で火葬に付され、約1.5キロ西にある「福王子町」の「円融天皇後村上陵」に葬られています。

現在、「一条天皇円融寺北陵」へは「龍安寺」駐車場奥から裏山沿いにある「消防用道路」を標識に従って進むと谷間にある宮内庁管轄陵墓地に達します。
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ここには右手に三条天皇の子で後朱雀天皇の皇后「禎子内親王」、左手に「後朱雀」「後冷泉」「後三条」の各天皇陵墓があります。


この陵墓の間の谷間沿いに登って行く山道を約15分登ると杉林が開けて「一条天皇」および「堀河天皇」の陵墓に着きます。
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また、ここから約200m登ると「円融天皇」火葬塚に着きます。



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鳥辺野陵へは、剣神社から約1キロ(徒歩約15分・地図の点線部分は階段)


参考文献
京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
(文 坂井輝久 ・ 写真 井上匠  淡交社)

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