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2008年10月 2日 (木)

番外編 「紫式部」と「一条天皇」

Img_7446 「源氏物語」を書いたと言われる「紫式部」は第66代「一条天皇」の中宮「彰子(しょうし)」の女房として仕えていました。



「一条天皇」は第64代「円融天皇」と藤原兼家の娘「詮子(せんし)」との間に生まれた皇子で、第65代花山天皇の譲位によって寛和2年(986年)わすか7歳で即位することになりました。

そして、寛弘8年(1011年)に32歳で崩御するまでの25年間も在位して平安王朝文化を花開かせた天皇です。

陵墓は京都市内を一望できる右京区龍安寺朱山にある「龍安寺」の裏山山腹にある「一条天皇円融寺北陵」です。
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「一条天皇」は即位後、正暦元年(990年)元服し、藤原兼家の娘「定子(ていし)」を中宮としました。
中宮「定子」の女房には「枕草子」を書いた「清少納言」がいます。

長徳元年(995年)に摂関家内部の対立が起こり、藤原道長が勢力を得て天皇の側近「内覧」となりました。

この政変により長保元年(999年)に藤原道長の娘「彰子」が入内することになり、一条天皇は二人の皇后を持つことなりました。

Img_7533 しかし、一条天皇は皇后「定子」の方を寵愛しましたが、第二皇女を出産後の長保2年(1000年)12月16日に皇后「定子」は亡くなってしまいました。
皇后「定子」の葬儀は「六波羅蜜寺」で行われ、都の南東にある「鳥辺野(とりべの)」に葬られました。

現在、皇后「定子」の陵墓とされる「鳥辺野陵」は東山区今熊野泉山町の山腹にあります。
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Img_7378 その後、中宮「彰子」との間に、のちの「後一条天皇」や「後朱雀天皇」を設け、藤原道長とも程よい関係を続けました。一条天皇は火災により一時的に「一条院内裏」を離れることがありましたが、中宮「彰子」と共に「一条院内裏」で暮らしました。(一条院跡 大宮通中立売上ル糸屋町付近)

「一条天皇」は寛弘8年(1011年)病に倒れ、6月13日に冷泉天皇の第二皇子にあたる「三条天皇」に譲位して22日に崩御しました。

7月8日に北山の「岩陰」(衣笠鏡石町)の地で火葬に付されました。
遺骨は東山の鹿ヶ谷にあった「円成寺」に一時預けられましたが、9年後に現在地の「龍安寺」裏山山腹に葬られました。

「龍安寺」の所在地には当時父「円融天皇」が譲位後に出家して余生を過ごした「円融寺」がありました。
「円融天皇」は裏山山頂で火葬に付され、約1.5キロ西にある「福王子町」の「円融天皇後村上陵」に葬られています。

現在、「一条天皇円融寺北陵」へは「龍安寺」駐車場奥から裏山沿いにある「消防用道路」を標識に従って進むと谷間にある宮内庁管轄陵墓地に達します。
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ここには右手に三条天皇の子で後朱雀天皇の皇后「禎子内親王」、左手に「後朱雀」「後冷泉」「後三条」の各天皇陵墓があります。


この陵墓の間の谷間沿いに登って行く山道を約15分登ると杉林が開けて「一条天皇」および「堀河天皇」の陵墓に着きます。
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また、ここから約200m登ると「円融天皇」火葬塚に着きます。



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鳥辺野陵へは、剣神社から約1キロ(徒歩約15分・地図の点線部分は階段)


参考文献
京都 紫式部のまち その生涯と「源氏物語」
(文 坂井輝久 ・ 写真 井上匠  淡交社)

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