2011年8月21日 (日)

継体天皇が眠る「今城塚古墳」

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「今城塚古墳」は第26代「継体天皇」の真の陵墓ではないかと言われている古墳です。

この古墳は6世紀前半に築かれた淀川流域最大の前方後円墳で、大阪府高槻市郡家新町にあります。

天皇陵墓とされていなかったために荒廃していましたが、高槻市によって発掘調査や整備が行われてきました。

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そして10年間の発掘調査と7年間の整備工事が終了し、古墳公園と古代歴史館を併設した「いましろ大王の杜」(無料)として一般に公開されました。


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墳丘は一部整備修復されましたが、崩壊した墳丘と自然に生えた樹木は以前のままです。


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また、内濠は一部に水が入れられていますが大半が芝生広場として整備されました。


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内濠を囲む内堤には埴輪祭祀場が再現されています。


併設された「今城塚古代歴史館」には、三島古墳群の概要と今城塚古墳の調査出土品・復元石棺などが展示されています。
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「今城塚古墳」に葬られたと言われる「継体天皇」は、今から1500年前「日本書紀」によれば西暦511年10月に「樟葉宮」(大阪府枚方市)から「山背筒城宮」(京都府京田辺市)へ遷都したとされています。

アクセス
JR京都線 摂津富田駅 徒歩30分
市営バス「今城塚古墳前」又は「氷室」

参考資料 
高槻市「いましろ大王の杜」パンフレット

2007年4月15日 (日)

継体天皇と野洲  滋賀県野洲市

滋賀県野洲市(やすし)は滋賀県の南東部を流れる野洲川の右岸にある街です。

この街は「近淡海安国造(ちかつあふみのやすのくにのみやつこ)一族が支配した地域と言われ、周辺には多くの古墳が点在しています。

この古墳の中には継体天皇と関わりがあるのではないかと言われる古墳があります。

この古墳は大岩山古墳群という古墳時代を通じて累々と築かれ続けた古墳群の中にあります。

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現在、「桜生(さくらばさま)史跡公園」として整備されて、公園内には6世紀前半に築造されたと言われる、「円山古墳」「甲山古墳」と呼ばれる二つの円墳と「天王山古墳」という前方後円墳が隣接して造られています。


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さて、「円山古墳」は6世紀初頭に築造されたと言われ、西側に開口した横穴式石室を備えています


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また「甲山古墳」は6世紀前半に造られたと言われ、これも西側に開口した横穴式石室を備えています。


また、石室に納められた石棺は、両方とも九州熊本産の「阿蘇ピンク石」が使用された刳抜き式家形石棺です。

10imasirozuka42_2 この石材「阿蘇ピンク石」は継体天皇の陵墓と言われる「今城塚古墳」の発掘調査でも確認されている石棺石材の一つです。



また、朝鮮半島に関係のある副葬品や馬具・武具の破片が出土しています。

これらのことから被葬者は大和政権と深い関わりがあり、九州や朝鮮半島とも関わった武人ではないかと言われています。

一説には「安国造」一族の墓と言われていますが、一部には「磐井の乱」によって朝鮮半島への派兵を阻止され、後に朝鮮半島に派遣された軍司令官「近江毛野臣」の墓ではないかと考える人もいます。

所在地については下記の地図をご参照ください。

桜生史跡公園
JR野洲駅下車 北東へ約2.5キロ
国道8号および旧中山道沿い

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2007年3月25日 (日)

石棺の故郷(2) 竜山石 高砂市・加古川市

継体天皇の真の陵墓と言われる「今城塚古墳」からは三種類の石棺に使われたと推測される石片が発見されています。
この中の一つが播磨産の「竜山石(たつやまいし)」と呼ばれるものです。

「竜山石」は兵庫県を流れる「加古川」流域周辺の石切場から産出される石材だそうです。
Harimaisitatuyama41 特に「加古川」河口の高砂市にある「竜山」とこれに続く「伊保山」周辺には古墳時代から続く大規模な石切場や石切場跡を見ることが出来ます。



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このうち「伊保山」の東側の山腹の古代の石切場跡には「生石神社(おおしこじんじゃ)」があります。


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この神社のご神体は家を横に寝かせたような形をした高さ約5mの「石宝殿」と呼ばれる500トンもある巨石です。
この石は岩をくり抜いて造られた人工の石造物です。
一説には物部守屋によって造られたとも言われていますが、何のために造られ、なぜ未完成のまま放置されたのかも解っていません。

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また、「竜山」の北東約5キロにある「平荘湖」北部(加古川市池尻にある貯水ダム)にも古代からの石切場跡があります。
Harimaisisekikan22 この湖畔にある弁天神社の境内には貯水ダムに沈んだ古墳の物とされる「竜山石」で造られた石棺の蓋が置かれています。



さらに約10㎞北上した「加古川」上流部の支流域にある加西市高室周辺にも古代からの石切場跡があるそうです。

「生石神社」の所在地については下記地図をご参照下さい。

「生石神社」へは
JR宝殿駅下車 約1キロ

「平荘湖」へは
JR加古川駅下車 約3キロ

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石棺の故郷(1) 二上山 (大阪府太子町)

継体天皇の真の陵墓と言われる「今城塚古墳」の発掘調査において三種類の石棺石材が発見されました。
その中の一つが「二上山白石」と言われるものです。

Inariyamakamokohun44 この石材は継体天皇の生まれ故郷、滋賀県高島市安曇川町にある「稲荷山鴨古墳」の石棺としても使用されています。





二上山(にじょうざん)は奈良県香芝市・葛城市と大阪府太子町の県境にある山で雄岳(517m)と雌岳(474m)の二つの連なる頂からなり、山麓にある穴虫峠や岩屋峠および竹内峠は古くから大阪と奈良を結ぶ交通の要所でした。
この内、雄岳には葛城坐二上神社と天武天皇の悲運の皇子「大津皇子」の陵墓があります。

さて、「二上山」周辺は凝灰岩や石英安山岩が露出していて古墳時代から中世にかけての石切場の跡が点在しています。

Donturubo11 この中で「穴虫峠」近くにある「屯鶴峯(どんづるぼう)」は大規模に凝灰岩が露出した奇景が広がっています。




Botandou11 また、「穴虫峠」を太子町側に下った溜め池手前の府道703号から近鉄南大阪線の土手にある斜めの小道を上り、小さな踏切を渡った山麓には「牡丹洞」と呼ばれる石切場跡があります。
そして府道を挟んだぶどう畑周辺の中にも古代の石切場跡が在るそうです。

一方、「穴虫峠」とは二上山を挟んで反対側にある国道166号(通称竹内街道)にある「竹内峠」を太子町側に下った右側にある「釣り堀」近くの山腹には「鹿谷寺跡」があります。
Sikadaniziato22 ここは古代の石切場の跡に奈良時代に造られた石窟寺院が在ったとされ、高さ5mの十三重塔や石窟があります。




Iwaya33 また、「鹿谷寺跡」の山上部にある「岩屋峠」下にも「岩屋」と呼ばれる石窟寺院跡が在ります。




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その他、太子町内には、「継体天皇」の孫にあたる「欽明天皇」の子供たち「敏達」「用明」「推古」の各天皇の陵墓および曾孫にあたる「聖徳太子」の陵墓が在ります。

太子町については下記地図をご参照下さい。
聖徳太子陵墓へは
近鉄大阪線 上ノ太子駅下車約1.5キロ

穴虫峠へは
近鉄大阪線 上ノ太子駅または二上山駅 約2キロ
JR和歌山線 香芝駅 約4キロ

車では
阪和道美原太子線 太子インター
国道166号

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2007年3月 6日 (火)

失われた継体天皇の石室

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3月4日日曜日に大阪府高槻市にて「真の継体天皇陵」と言われる「今城塚古墳」の第10次調査現地説明会が行われました。

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今回の調査結果で注目されたのは前方後円墳の後円部中心線から北側に向かって地震によって起きた「地滑り」跡から石室を支えるために石室下に造られた四角い石組みの基礎部分の三辺がコの字形に確認されたことです。
写真で見ると中央部分が大きく沈んでいるのは、典型的な地震による地滑り(円弧滑り)の状況を示しているそうです。

なお、この石組みの残る1辺は第8次調査の時に後円部中心線から南側(今回とは反対側)で石組みの一部が発見されていて、石室の基礎部分ではないかと言われていました。

10imasirozuka46 今回の調査で、古墳は三段状になっていて最上部三段目の盛土の内に横穴式石室が造られていた可能性が高くなってきました。



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しかし、石室を形作っていた巨大な石や石棺が発見されず、複数の調査地点で石棺の破片や副葬品の断片が出土していることから早い時期に盗掘を受け、しかも地震での地滑りが起きる前の時点で石室が失われていた可能性が高いことが解ってきました。

では、石室の中に納められていた3つの石棺(石棺に使われたと思われる三種類の石片が見つかっている)と石室はいつ頃失われたのでしょうか。

中世の古文書「公衡公記」には正応元年(1288年)に盗掘者が鏡などを盗んだことが記録されていることから、13世紀後半から地震が起きる15世紀末までの間に石室と石棺が失われたと言われています。

また、ある説では石室の解体は近世に入ってからではないかとも言われています。

Isibutaikofun44 何れにしても奈良県明日香村にある「石舞台古墳」(写真)で明らかなように、巨大な石で築造された石室を運び出すには相当の人力と機材が必要だったろうと想像されます。


では、継体天皇の石棺と石室はどこへ消えたのでしょうか。
城の石垣に使われたのでしょうか。
それとも寺院や神社で使われたのでしょうか。
あるいは小川の橋やどこかの庭石として使われたのでしょうか。
はたまた、古墳のどこかに今も眠り続けているのでしょうか。


「今城塚古墳」については当ブログの「継体天皇と今城塚古墳をご参照ください。

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2007年3月 2日 (金)

継体天皇と今城塚古墳

日本書紀によると継体25年2月7日に「磐余玉穂宮」で亡くなられた「継体天皇」はこの年の12月5日に「藍野陵(あいののみささぎ)」に葬られたと書かれています。
一方、古事記には「三島の藍陵」と書かれています。

天皇の陵墓については18世紀の初め頃に徳川幕府が各藩に天皇陵墓の所在を報告するように命令を出したことが知られています。
その後も天皇陵の所在探しが行われ、幕末から明治にかけて天皇陵墓の確定が行われてきました。

そして現在では宮内庁により各天皇の陵墓が指定され、関連する古墳や天皇陵墓として可能性があるものについては参考陵墓として宮内庁が指定管理をしています。(考古学的に天皇陵墓として疑問を指摘されている陵墓もあるが宮内庁は改める気配はない。)

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Ootachausuyama11_2 宮内庁に拠れば「継体天皇陵」には大阪府茨木市にある「太田茶臼山古墳」(墳丘長230m)を指定しています。



Imasirotukakofun44  しかし、考古学研究者による古墳の研究・調査によって「太田茶臼山古墳」の東側1.5キロのところにある「今城塚古墳」の方が埴輪の年代などの考古学的資料から見ると「継体天皇陵」にふさわしいのではないかと言われています。



Imasirozuka55 「今城塚古墳」は大阪府高槻市郡家新町にあります。
墳丘長182m
後円部 直径100m・高さ11m
前方部 幅142m・高さ12m
築造時代 6世紀前半
現在は国の史跡に指定され、高槻市によって史跡公園として整備が進められています。
また、高槻市教育委員会によって毎年発掘調査が行われた結果、「中世の砦の造成によって古墳が大きく壊された」とされていましたが、「太閤秀吉が築城した伏見城の天守閣が崩壊したことで知られる慶長伏見地震による地滑りで古墳の形が大きく崩れた」ことが解ってきました。

平成18年度の発掘調査では、後円部に在った石棺を納める石室の下の基礎部分が発見されました。

この現地説明会が平成19年3月4日日曜日午前10時から午後3時まで「今城塚古墳」で行われるそうです。
なお、周辺には車の駐車場は在りませんが最寄りの駅から臨時バスが出るようなので、詳しくは高槻市のホームページ」のお知らせをご覧ください。

また、過去の現地説明会については森本行洋氏のホームページ 古墳のある街並みから」の古墳見て歩き今城塚古墳を閲覧していただくと大変良く解ります。

なお、当ブログ継体天皇の陵墓を旅する 高槻市の記事もご参照ください。

「今城塚古墳」の所在地については下記の地図をご覧ください。
名神高速「茨城インター」から国道171号へ約5キロ
JR摂津富田駅から約1.5キロ(徒歩約25分)
JR高槻駅から約2.5キロ

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2007年3月 1日 (木)

継体天皇と安閑天皇

日本書紀に拠れば、第27代「安閑天皇」は「継体天皇」と尾張連草香の娘「目子媛(めのこのひめ)」との間に生まれた皇子で「勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)」と呼ばれていました。
生まれた場所は不明ですが、「継体天皇」は即位前まで越国で暮らしていた事から考えると越国で生まれたと推測されます。
しかし、この時代にはまだ母系社会が強く残っていたとされることや平安時代まで「通い婚」(夫が妻の実家に通う婚姻形式)があったことから母「目子媛」の故郷「尾張」で暮らしていたのかも知れません。

Azimanomagarinosato11 因みに越国、現在の福井県内には越前市味真野(写真は勾皇子が住んだと言う真柄にある勾の里の碑)や粟田部、坂井市三国町池上地区などに「勾皇子(まがりのおうじ)」が生まれ育ったとされる伝承が伝わっています。

Tutukinomiyasekihi1_2 今から1500年前の西暦507年3月5日(旧暦2月4日)に継体天皇が「樟葉宮」で大王に即位した後、二番目の宮「筒城宮」(写真は同志社大学田辺キャンパス内にある筒城宮跡の碑)に遷都した2年後の継体7年(513年)9月に「勾大兄皇子」は「仁賢天皇」の皇女「春日皇女」と結婚したと書かれています。
また、この年の12月には継体天皇の後を継ぐ「大兄皇子」(皇太子のこと)に指名されて継体天皇と共に政務を行ったそうです。

その後、継体天皇は継体20年(526年)に大和入りして「磐余玉穂宮」に宮を開らきましたが翌年(527年)には筑紫国の「磐井」の征伐に乗り出して1年半後に平定しました

継体25年(531年)には継体天皇が病にかかり、亡くなる前に皇位を譲られて「勾大兄皇子」が大王に即位したと書かれています。

Kanahasinomiya1_2 「勾大兄皇子」の即位後の宮は「金橋宮」と言い、現在の奈良県橿原市曲川町の金橋神社付近に在ったとされています。




Ankaryou11_1 しかし、即位後2年で亡くなられ、古市高屋丘陵に葬られたと書かれています。この時、70歳だったそうです。
現在、宮内庁では古市高屋丘陵を大阪府羽曳野市古市5丁目にある「高屋築山古墳」として「安閑天皇陵」に指定しています。

なお、日本書紀には継体天皇の崩御年の資料として「百済本記」の中の記述を示していますが、これには天皇と皇太子そして皇子が共に亡くたったと書かれています。
これが事実とすると「継体天皇」が亡くなられた時に「勾大兄皇子」も亡くなったことになります。

安閑天皇「金橋宮」については継体天皇の後継者たちへの旅(2)橿原市をご参照ください。

また、「安閑天皇陵」については継体天皇の後継者たちへの旅(1)羽曳野市をご参照ください。

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2007年2月10日 (土)

継体天皇伝説外伝 和歌山県橋本市

奈良県境に接し、「紀ノ川」が流れる和歌山県橋本市隅田(すだ)町にある「隅田八幡神社」には国宝に指定されている古代の鏡「人物画象鏡」が伝わっています。

この鏡には、「癸未(みずのとみ)年八月・・・」から始まる銘文が書かれています。
文字は一部特定しにくい文字もありますが
「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」
の48文字ではないかという説があります。

この銘文をどのように読み解くかによって幾つかの説が発表されています。

その中の一つに
「癸未年」を503年として、「日十大王年」を「ヲシ大王」と読み「仁賢天皇」の時代にあて、「男弟王」を「ヲド王」と読み「男大迹王(継体天皇)」というように読み解くことが出来ると言うのです。

これに基づいて銘文を読むと
「503年8月、仁賢天皇の治世、男大迹王が忍坂宮に住んでいたとき、百済の斯麻(しま)王(武寧王ぶねいおう)は長寿を念じて開中費直と穢人今州利の二人を使わし、銅二百貫でこの鏡を作った。」
という内容になるそうです。

この内容が正しいとすると「仁賢天皇」の時代に即位前の「継体天皇」が大和国の「忍坂宮」(桜井市忍坂)に住んでいたことになります。

「仁賢天皇」と「男大迹王」が登場する伝承は岐阜県根尾の「薄墨桜」に関わる伝承「真澄探當證(ますみたんとうしょう)」とも通じるところがあります。
「真澄探當證」では「仁賢天皇」が弟「顕宗天皇」の子「男大迹王」を根尾から都へ呼び寄せて皇太子としています。

その他には「雄略天皇」とする説もあります。
因みに、癸未年を443年と読むと、「允恭天皇」の時代にあたり、皇后は「忍坂大中姫」でした。

「隅田八幡神社」については、「橋本市観光協会ホームページ」をご参照ください。

「隅田八幡神社」の所在地については下記地図をご参照ください。

「隅田八幡宮」
和歌山県橋本市隅田町垂井622
JR和歌山線隅田駅下車徒歩約20分

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2007年2月 4日 (日)

「樟葉宮(くずはのみや)」について

今から千五百年前の507年2月4日に河内国楠葉の「樟葉宮」において第26代継体天皇が即位されました。

「樟葉宮」は511年10月に山背国(やましろのくに)筒城(つつき)に宮を移すまでの約5年間、継体天皇の都でした。

Katanotenzinsya44_1 「樟葉宮」は現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある「交野天神社」内の貴船神社付近にあったと言われています。
この「交野天神社」は桓武天皇が都を「平安京」へ移すにあたり先帝である「第49代光仁天皇」を祀った神社です。


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「楠葉」は丹波から流れてくる「桂川」、琵琶湖から流れてくる「宇治川」、大和から流れてくる「木津川」の3つの川が合流して「淀川」となって瀬戸内海へと続く重要な地点にあります。

「古事記」によると「久須波(くすは)」といい、「建波邇安王(たけはにやすのみこ)の軍が敗走して川の渡りに殺到した時、敗走兵は糞が出て袴に付いた状態だった」という事から「くそばかま」と言われ、それが訛って「くすは」になったと書かれています。(日本書紀にも同様のことが書かれています。)

Yodogawahirakata11 この事から古くから川の渡場があり、「久須波の渡り」と言われていたようです。
そして、近くの河川の草地では「牧場」が設けられていて「馬」を飼い、「楠葉津」には多くの「船」が出入りしていたようです。

古代において「河川」は重要な「物流」と「情報」・「軍事」の幹線であり、これを支配することで「物」や「文化」および「情報」をいち早く得ることが出来ました。

また、古代道「山陽道」沿いにもあり、陸上からも素早く九州へ行くことが出来ました。因みに「都」から「九州 太宰府」へ向かう古代官道「山陽道」は非常に重要視され、官道の中で唯一「大路」とされました。

この様に「樟葉」は交通の要衝であり、軍事上も重要な拠点であったと言われています。

なお、「継体天皇」が倭中央政権の中枢「大和国」ではなく「河内国」に向かった理由は不明です。

一説には倭政権内部の反対派の「情報」を得るために知り合いであった「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)」が住む「楠葉」にて即位して一時的な「宮」を築いたのではないかとも言われています。

また、ある説では倭政権は国内の地方豪族を完全に支配しておらず、軍事的にも行動しやすい地に「宮」を築いたのではないかとも言われています。


「樟葉宮跡」の所在地については下記の地図をご参照ください。
詳しくは「継体天皇の宮跡をめぐる旅(2)」をご参照ください。

大阪府枚方市楠葉丘2丁目19の1 
交野天神社内貴船神社付近

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2007年1月30日 (火)

河内馬飼首荒籠について

今から1500年前の507年1月、越国三国へ即位の招請に向かった倭の使者に対して、「男大迹王(をほどのおおきみ)」後の継体天皇は大きな疑念を抱いていた。
この時、「男大迹王」に倭中央政権の内情を伝える使者を送ったのが「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ)」でした。
「河内馬飼首荒籠」と「男大迹王」は以前からの知り合いだったと日本書紀には書かれています。

では「河内馬飼首荒籠」とは、どのような人物だったのでしょうか。
「河内馬飼首荒籠」は河内国に住む「馬飼い」を本業とする伴部の長だったと言われています。また、渡来人との交流も深かったようです。
一説には諜報部員的な仕事も行っていたのではないかとも言われますが詳細は不明です。
また、「日本書紀」に拠れば、「応神天皇」の母「神功皇后」が新羅に出兵して勝利した時に新羅の王が「これからは馬飼いとして仕え、馬の手入れに必要な刷毛や鞭を差し上げましょう。」と言う場面が書かれています。
そして、「応神天皇」の記述の中には「百済の王が良馬2頭と馬飼いとして阿直岐(あちき)と言う人とを贈った。」という事が書かれています。
この様なことや古墳などからの馬具や馬の埴輪の出土状況から、5世紀頃に馬や乗馬の技術が渡来したと言われています。

一般的に「馬飼い」は川や湖の岸辺などの牧草地で馬を飼うのに必要な塩を作る製塩地から近い所で行われていたようです。
河内国では現在の淀川周辺や古代河内湖の沿岸だった四条畷・寝屋川・東大阪や平野周辺などに点在していたそうです。
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この中で「河内馬飼首荒籠」は「樟葉宮」近くの淀川周辺に牧場を持っていた「馬飼」だと言われています。
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枚方市東部の淀川支流「穂谷川」近くにある「藤阪元町」地区周辺では「藤阪南遺跡」が発見され、集落跡の他に継体天皇時代(1500年前)頃の馬屋跡と思われる細長い建物跡と倉庫跡が発見されています。

Fuzisakasyou11 現在、「藤阪小学校」の構内(枚方市藤阪南1丁目)に遺跡の説明板があります。





その他、北河内地域の「馬飼」に関係する代表的遺跡をご紹介しましょう。

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大阪府四条畷市中野3丁目
(四条畷市総合センター)
馬の骨や祭具など牧での祭事を行った跡が見つかった


Sitomiyaato11 「蔀屋(しとみや)北遺跡」
大阪府四條畷市蔀屋
(なわて水環境保全センター建設現場)
馬の伝来を思わせる、外洋を航海したと見られる大型船の廃材を使用した井戸や馬具が発見された。

出土品の一部は「四条畷市立民俗資料館」(四条畷市塚脇町3の7)に展示されています。


また、「日本書紀」の継体天皇に関する記述に登場する「河内馬飼首御狩(かわちのうまかいのみかり)」の本拠地とされる「母樹(おもき)」は現在の東大阪市豊浦町付近とされています。

所在地については下記地図をご参照ください。

「藤阪南遺跡説明板」(藤阪小学校)
大阪府枚方市藤阪南1丁目
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「奈良井遺跡」(四条畷市総合センター)
大阪府四條畷市中野3丁目
「蔀屋北遺跡」(なわて水環境保全センター建設現場)
大阪府四條畷市蔀屋
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