2009年1月18日 (日)

番外編 「紫式部」と「催馬楽(さいばら)」

Img_8025 今から千年余り前、「紫式部」は越前国の国府「たけふ」の地でひと冬を過ごしたと言われています。



Img_6322 越前国府が置かれていた「たけふ」の地名は古代伝承歌謡「催馬楽(さいばら)」の中の「道口(みちのくち)」という曲に登場します。



「道 口」

「みちのくち たけふのこふに われありと おやにまうしたべ こころあひのかぜや さきむだちや」


木村紀子訳注の東洋文庫「催馬楽」(平凡社)や臼田甚五郎訳注の日本古典文学全集「催馬楽」(小学館)などによれば、「催馬楽(さいばら)」は平安時代頃まで琴・琵琶・笛・筝・笙・篳篥などで奏でる曲と共に歌い継がれていた歌謡だそうです。

しかし、当時すでに「古謡」として位置付けられ、本来は世相を歌った庶民の労働歌のようなものらしいのですが、その成り立ちや意味が解らないまま、口伝として受け継がれていたそうです。

古代の伝承歌謡には「催馬楽」のほかにも「神楽」・「風俗(ふぞく)」があり、この中で神事などに関わりのある「神楽」は現在まで伝承されていますが、「風俗」は平安時代には衰退していたようです。


Img_7967_2 さて、今から千年余り前の平安時代中頃に一条天皇の中宮「彰子」に女房として仕えた「紫式部」も「催馬楽」についてよく知っていたようです。

「紫式部」が書いたとされる「源氏物語」の巻名の中には「梅枝(うめがえ)」・「竹河(たけかわ)」・「総角(あげまき)」・「東屋(あずまや)」と言う、「催馬楽」の中の曲名が使われているそうです。

また、物語の中にも20曲ぐらい「催馬楽」の曲を連想させる文章があるそうです。

「催馬楽」は平安時代末ごろには衰退して、僅かに残って伝わっていた61曲を体系的に取りまとめた、源雅信の流れを組む「源流」や藤原氏に伝わる「藤流」の楽譜とも言うべき本が後世に写本として伝わっているようです。
しかし、歌い方や曲は符号として残っているのみで、何度か復元に取り組まれていますが、当時とはすこし違っているようです。

Img_7927 さて、「催馬楽」の中の「道口(みちのくち)」のほかに「刺櫛(さしくし)」にも登場する「太介不(たけふ)・太介久(たけく)」の語源は定かではありませんが、「源氏物語」の中でも「たけふのこふ」と記していることから越前国府が置かれた地域が「たけふ」と呼ばれていた事は事実のようです。

しかし、「延喜式」や「和名抄」などに記述がない事から公式的な呼び方ではなかったようでず。

中世には「府中」と呼ばれていましたが、明治時代の初めに大都市以外の地を「府中」と呼ぶ事は好ましくないというお達しが政府より出たために「催馬楽」に残る古い呼び方「たけふ」が町の名前として使われることになりました。
そして「たけふ」に対する漢字として「武生」があてられることになったそうです。

なぜ、「武生」という漢字になったかは不明ですが、「竹」がたくさん生えていた所から「竹生」あるいは「竹府」と書かれたことに加えて、この地を長く治めていた「本多氏」に対する忠誠心が強く、武士に対する誇りを保っていた土地柄だったために「竹」を「武」に変えて「武生」としたと言う説があります。

Img_5906 また、「継体天皇」の伝承が伝わる土地であったことから「続日本紀」称徳記の天平神護元年十二月の記述にある馬飼いに優れた百済系の渡来氏族に与えられた「武生」という氏族名から「武生」となったという説もありますが信憑性は不明です。

明治42年ごろ発刊された郷土誌「若越小誌」(福井県)によれば、藩は「武生」の読み仮名を「タケヲ」と記したが俗に「タケフ」と読まれたと記しています。

現在は平成の市町村合併によって「武生市」と言う由緒ある名前から「越前市」に変わっています。

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2008年2月10日 (日)

番外編 「紫式部」と「たこの呼坂」

長徳2年(996年)に越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国に下向した「紫式部」は1年半余りを過ごした越前国府を後にして都に戻ったと言われ、都に帰る途中に詠んだとされる歌が「紫式部集」に記されています。

この中の一つに

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉よりいと多く出で来れば

ましもなほ 遠方人(をちかたびと)の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂

と詠んだ歌があります。(底本 陽明文庫蔵本参照)

Img_6188 内容は、都へ向かう途中、かえる山を越えるところに呼坂と呼ばれているとても難儀な険しい道で輿も担ぎ辛く恐ろしいと思っているとき、木の葉の中から猿がたくさん現れた

猿よ、お前もやはり遠方人として声をかけ合っておくれ、
私の越えあぐねているこの谷の呼坂で

と心細い帰路の心境を詠んでいるそうです。(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」参照)


この中に登場する「呼坂(よびさか)」がどこにあるのかについては幾つかの説が出されています。

一般的には官道「北陸道」にある急峻な谷坂、或いは古北陸道にある山中峠付近とされていますが、写本の中の「定家本」や古本の一部には「たごの呼坂」と記されていることから「たご」或いは「たこ」という地名のところとも言われています。

Img_6468_2 「南條郡誌」によれば、「かえる山」を通る官道「北陸道」沿いにあるとして、「木ノ芽峠」を越えて「敦賀浦」手前の山地にある「越坂(おっさか)」から「越坂峠」を越えて「田結(たい)浦」に下る「田越坂」をこの「呼坂」としているそうです。
現在、「田越坂」は田結の谷間に砂防提が造られ、永らく使用されず荒れ果てています。
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Takosaka22 一方、上杉喜寿氏の著書「越前 若狭 歴史街道」によれば、「かえる山」は昔の「鹿蒜(かえる)郷」を含む広い範囲の山の総称とされることから、「鹿蒜郷」に隣接する「大谷浦」地籍に残る「蛸(たこ)谷」から「大谷浦」に下る坂を「たこの呼坂」としています。
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また、「万葉集」に登場する「手児の呼坂」(静岡県興津と由比町の間にある峠)に関する歌

「東道の手児の呼坂越えかねて 山にか寝むも宿りはなしに」

を「紫式部」は知っていて、同じ「呼坂」の名前を持つ「たこの呼坂」に興味を持ったのではないかとしています。

因みに「呼坂」とは、野辺で働く彼女に今夜遊びに行くと言う「夜這い(よばい)」の合図を交わしたところだそうです。

なお、「越前国府」から「たこの呼坂」に至るルートについては、このブログの過去の記事
番外編 滅び行く古代からの道」をご参照ください。

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2008年2月 9日 (土)

番外編 「紫式部」と「「雪」

Img_6446 今から約千年余り前に、「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府へ下向しました。

のちに「紫式部」が自ら詠んだ歌を集めたと言われる「紫式部集」には、越前国府で詠んだと見られる歌が記されています。

この中で

降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて
「なほ、これ出でて見たまへ」といへば

ふるさとに かへるの山の それならば 
               心やゆくと ゆきも見てまし


と詠んでいます。

内容は、雪の日が続き、うっとうしくうんざりと思っている雪を、皆は雪掻きをして山のようになったところに登って
「雪がおいやでも、この雪山を縁側に出て御覧なさいませ」と誘っているので

「故郷の都へ帰るという名のある鹿蒜(かえる)山の雪の山なら、気が晴れるかと出かけて行って見もしましょうが」

(校注者 山本利達 新潮社発行 「紫式部日記 紫式部集」 参照)

と応えたというようなことだそうです。

都で育った「紫式部」にとって、雪に閉ざされる越前の冬はゆうつな日々であったようです。

さて、この歌の中に登場する「かえる山」は「越前国府」と「敦賀」の間にある山地で、昔の「鹿蒜(かえる)村」一帯(現在の南越前町南今庄地域)の山の総称だといわれています。
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この一帯の山中には官道「北陸道」にある「木ノ芽峠」や古北陸道にある「山中峠」などがあり、都に帰るときにはこれらの峠を通ったようです。

現在でも「JR北陸本線」や「北陸自動車道」はこの一帯の山地を通過しています。

なお、平安時代の気候は前半までが中世温暖期(8世紀から10世紀)にあたり、後半から徐々に寒くなってきたと推測されているようなので、現在より少し寒かったかも知れません。
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2008年2月 3日 (日)

番外編 「紫式部」と「越前国府」続編(1)

平安時代中期の長徳2年(996年)に結婚前の「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府が在った「たけふ」の地に下向しました。

Img_4297 国府が在った「たけふ」の地は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近だと言われています。
しかし、国府遺構が発見されていないためにどこの場所に存在したか判明していません。

「たけふ」の地は律令制が崩壊して国府も衰退しましたが、貴族に代わって武士の時代になっても「守護所」が置かれて越前国の政治・経済の中心地として発展したそうです。

江戸時代に入り、越前国の中心地は「福井」に移りましたが、徳川家康の信任が厚い「本多富正」が「府中」と呼ばれていた「たけふ」周辺を治めて、街づくりに努めたために衰退することはありませんでした。

この間、幾度かの戦乱に見舞われました。
しかし、国府を中心に発展した街は戦国時代末期から江戸時代初期に一部造りかえられましたが今日まで続いているそうです。

さて、国府の所在地については街の中心を南北に通る「北陸道」や周辺河川と寺社地を基に諸説が提唱されています。



土塁が残る「正覚寺」(新善光寺城跡)を国庁跡とする「藤岡謙二郎」説
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「正覚寺」を国庁跡として初期の北陸道が「河濯川」付近沿いに北陸道が通っていたとする「真柄甚松」説


境内の東側に堀跡と想定される溝がある「本興寺」を国庁跡とする「斎藤 優」説
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北府(きたご)町付近に国庁跡があったとする「水野時二」説


などの幾つかの説が提唱されています。

なお、「総社」は現在地から南東約300mにある「公会堂記念館」付近に在ったと言われています。

これらの推定地については、武生市教育委員会が発行している「武生の歴史」の越前国府の推定位置図(「都市地理学の諸問題」大明堂発刊の金坂清則作成の地図より作図)を参考にした下記地図をご参照ください。

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2008年1月26日 (土)

番外編 「紫式部」と「越前国府」

長徳2年(996年)「紫式部」は越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国の国府に下向しました。

Img_6368 国府での生活は一年半余りの短い間でしたが「紫式部」に雪深い遠方の地との印象を残しました。
そして十年余りのちに書かれた「源氏物語」の「浮舟の巻」において、「たけふの国府」を遠方の地の例えとして登場させています。

「越前国府」は、現在の福井県越前市(旧武生市)の中心市街地付近に在ったと言われています。

国府の遺構は市街地の地下にあるために現在も確認されていません。

しかし、9世紀初頭頃に歌われていた古代歌謡「催馬楽(さいばら)」には「太介不乃己不(たけふのこふ)」という表現があります。
また、930年頃の「和名類聚抄(和名抄)」には「越前国府丹生郡にあり」と記しています。
このことから越前国府は丹生郡の「太介不(たけふ)」の地に在ったことが解ります。

また、国府には「総社」や「国分寺」が置かれ、「国府」や「府中」とも呼ばれたと言われています。

このようなことから古くから交通の要所であったこと、古くには日野川左岸が「丹生郡」に属していたこと、「たけふ」の地名や「総社」・「国分寺」の名を持つ寺社があること、中世には「府中」と呼ばれたことなどから現在の越前市中心市街地に国府が在ったと推測することができるそうです。
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また、「市役所」付近にあった「府中城跡遺跡(戦国時代)」などの調査で奈良・平安時代の地層から「国大寺」・「国寺」・「大寺」・「足羽」と書かれた墨書土器や古代瓦が出土したことからもこの地に国府が在ったと推測されるそうです。(武生公会堂記念館にて展示・無料)
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その他にも周辺地域に国府で必要とされた「和紙」や「漆器」・「土器」・「瓦」などを供給するための生産拠点があり、これらは「越前和紙(五箇)」や「越前漆器(河和田)」・「越前焼(織田・宮崎)」などとして現在まで受け継がれています。
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Kehizingu111 なお、最初の越前国府は福井県敦賀市に置かれたという説もあるそうです。
これは越前国の入口の地にあること、古代から関所や重要な港であること、越前一の宮「気比神宮」があること、官道「北陸道」沿いの式内社「志比前神社」付近に「道の口」という地名が残ることなどから最初の国府があったのではないかと言われているそうです。

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2008年1月25日 (金)

番外編 「源氏物語」と「たけふ」

今から千年前の平安時代中頃、「紫式部」によって書かれた「源氏物語」の「浮舟の巻」には、「たとへ たけふの国府にうつろい給ふとも 忍びて参り来なんを、なほなほしき身ほどはかかる御為こそいとほしく待れ」と言う表現を見ることが出来ます。

Img_4297 この中に取り上げられている「たけふの国府」とは「越前国」の国府のことで、当時から「たけふ」と言う地名で呼ばれていたそうです。
この「たけふ」の地は現在の福井県越前市の中心市街地周辺に相当する地域で、東側を日野川左岸に接した日野川の自然堤防上にあったようです。

「たけふ」は漢字で「太介不」と書かれたようで8世紀末から9世紀初め頃に歌われた古代歌謡集「催馬楽(さいばら)」には「見知乃久知 太介不乃己不尓 和礼波安利止(みちのくち たけふのこふに われはありき)」との表現が残っているそうです。

しかしながら、中世に入って一般には「府中」と言われるようになり、「竹生」や「武府」などと表記された「たけふ」の地名が一部で使われるのみとなったそうです。

時代が変わり、明治2年に「府中町」から昔の地名「たけふ」を「武生」と表記して「武生町」となり、平成の大合併で「今立町」と合併して「武生市」から「越前市」に変わるまで「たけふ」の地名が使い続けられました。

Img_6322 「源氏物語」の著者「紫式部」は、長徳2年(996年)に越前守に任じられて越前国へ下向した父「藤原為時」と共に、国府が置かれた「たけふ」へ来ました。

1年半余りの短い期間でしたが、雪深い遠方の地での体験が「源氏物語」の中にも生かされていると言われています。


「武生」へは
JR北陸本線「武生駅」下車

車では
北陸自動車道「武生インター」から西へ約1.5キロ
または、国道8号をご利用ください。

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2008年1月19日 (土)

番外編 紫式部と日野山

Img_6293 越前国府の南東にそびえる「日野山」は、養老2年(718年)に「泰澄」によって開山されたと言われ、越前五山(白山・越知山・文殊山・蔵王山・日野山)の一つです。

古文書には「ひのだけ(日野岳)」や「おたけやま(小健山・小岳山)」或いは「ひながだけ(雛ヶ岳・日永岳)」などの名前で登場します。

古くには標高795mの山頂に南社・中社・北社の三つの社があり、「不動明王」・「文殊菩薩」・「観音菩薩」が祀られ「三所権現」とも呼ばれていたそうです。

また、山麓にある「日野神社」は「継体天皇」とその皇子「安閑天皇」「宣化天皇」を祀り、奥社となる山頂の社にもそれぞれの天皇が祀られていたそうです。


Img_4377 さて、今から千年余り前の長徳2年(996年)越前守に任じられた父「藤原為時」と共に越前国府に遣って来た結婚前の「紫式部」はこの地で約1年半暮らしました。

このときに詠んだ和歌が「むらさき式部集」にいくつか収められています。
この中に雪に覆われた「日野山」を見て詠んだ歌があります。

暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらる

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日や

と歌っています。

この和歌は、暦に初雪の降る頃と書かれた日に近くの雪に覆われた日野岳を見て、都の小塩山にも雪が降っているのだろうかと都を懐かしんだ歌だそうです。

雪深い厳しい越前の冬を過ごした「紫式部」は、2回目の冬を迎える前に越前国府を後にして都へ戻ったそうです。


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2008年1月14日 (月)

番外編 滅び行く古代からの道

越前国の国府が置かれた「越前市」周辺には、千年以上も使い続けられた古道が幾つか存在します。
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これらの道は時代と共に主街道から脇街道へと移り変わりましたが、昭和30年ごろまでは生活道路として利用されていたようです。

Kinometouge2 代表的な主街道は「北陸道」と言われる道です。
この道は国府から南へ下り、「湯尾峠」を越えて「今庄」から西へ「鹿蒜」・「新道」地区へ向かいます。
「新道」からは南へ進んで「木ノ芽峠」を越えて「敦賀」、そして琵琶湖西岸へと進み都へ至る道でした。

しかし、「木ノ芽峠」が整備される前は、「新道」地区から西へ向かい「山中峠」を越えて海岸沿いの「元比田」「大比田」へ下り、「敦賀」へ向かう「山中越え」と言われる道が主街道とされていたそうです。

現在、「山中トンネル」の山上にある「山中峠」は今庄側トンネル入口手前から左に入る林道を約500m登り、峠入口の標識のある左の谷に進んで沢沿いの細い山道を約700m行った所にあります。
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峠は緩やかな坂の上部にお地蔵さんがひっそりと祀られている祠があります。
しかし、峠から海岸部へ下る道は土砂崩れと倒木で道筋を見つけることが困難な状況になっています。
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また、国府の南に位置する「大塩」地区からは、通称「塩の道」と言われる道がありました。
この道は谷間の奥地にある「瓜生野」集落から集落左手の尾根沿いを登り、「菅谷峠」をl越えて「旧河野村菅谷」へ下って谷沿いを南へ進み、海岸沿いの「大谷」「元比田」集落へ至る道」です。
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Img_4960 この「塩の道」は海岸の集落で作られた「塩」を国府に運ぶために使われていた古代からの道だそうです。


Img_5331 現在は峠の南に位置する「ホノケ山」に登るための登山道として使われていますが、尾根沿いに残る深いU字形の道は千年以上も人の足によって踏み固められた痕跡だそうです。


その他にも「越前若狭 歴史街道」の著者「上杉喜寿」氏によれば、「大塩」地区の隣「春日野」地区にある「円福寺」左手の尾根に過って在った神社の東側を尾根沿いに伸びる深いU字形の道が、約千年前に都に戻る途中に「たこの呼坂」に立ち寄るために「紫式部」一行が通った道だそうです。
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この道は「春日野」から尾根沿いに「武生トンネル」上にある「具谷峠(七曲峠或いは七万曲とも言う)」へ向かい、「旧河野村具谷」へ下って「具谷」集落南の丸い山稜を持つ「山王山」の麓にあるお地蔵さんの祠の前から祠の上に続く尾根伝いの古道(一部林道で途切れる)を登り、「山王社」跡がある「山王峠」を越えて「河内」集落へ下ります。
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「河内」集落からは河野川沿いに上流へ約1キロ進んで南西に伸びる谷に入る林道を約500m行きます。
この付近に右側林道下の沢が二手に分かれる所であり、ここを右手の沢に入って沢沿いに約2.5キロ進むと「蛸(たこ)坂」の峠に達します。
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切通しになった峠を越えて南へ下る「蛸(たこ)坂」(国道8号で途切れる)を下って海岸沿いの「大谷」集落へ通じる道だそうです。
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この「たこ坂」へ通じる道は倒木や土砂崩れ・土砂採取・道路などで何箇所かで通行不能になっていますので注意してください。


Img_6141 「具谷峠」から約600m手前付近の尾根が約300m土砂採取のために深く削られているために古道が寸断しています。



Img_6172 また、「具谷峠」から「具谷」集落へ下る道も土砂崩れと倒木のために道の痕跡が不明になっています。



Img_6188 その他にも「たこ坂」までの沢沿いの道も倒木と荒廃のために通行が困難になっています。



Img_5889 それから「たこ坂」は国道8号(旧大谷第1トンネル敦賀側入口横)から「大谷」集落へ斜めに下る道が国道拡張工事などでルートが不明になっています。



なお、「紫式部」が通ったとされる「蛸(たこ)の呼坂」への道について推定ルートを「上杉喜寿」氏の著書を参考にして下記の地図に示します。

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2008年1月 1日 (火)

番外編 「紫式部」が通った道

Img_4376 2008年は平安時代の女流作家とも言うべき「紫式部」が「源氏物語」を書いて千年の記念の年です。

紫式部は長徳2年(996年)に越前国司に任命された父「藤原為時」と共に越前国の国府に来ました。

しかし、翌年には藤原宣孝との結婚の為に都へ戻ったと言われています。

さて、都から越前へは大津から船で琵琶湖西岸沿いを進み、塩津付近から陸路を「敦賀」へ向って越前国に入り、木ノ芽峠を越えて国府(現在の越前市)へ入ったそうです。

一方、帰路は「かへる山」を越えて「たこの呼坂」を通って「敦賀」へ向かい、琵琶湖東岸を通って都へ戻ったと推測されています。

これらのことは、紫式部が旅の途中に詠んだとされる歌をもとに推測されているそうです。

この中で、紫式部が都へ戻るときのコースについても幾つかの説が発表されています。

主要な説は官道であった北陸道を進み「木ノ芽峠」を越えて「越坂」から「田結」へ抜ける「田越坂」を通って敦賀へ向かったと言う説です。

他にも、旧官道であった「山中峠」を越えて海岸沿いの「大谷」或いは「元比田」に下って、陸路または船で「敦賀」へ向かったと言う説や国府の港であった「河野」から船で帰ったと言う説などがあります。

「越前若狭 歴史街道」や「越前若狭 続山々のルーツ」・「越前若狭 峠のルーツ」などの著者「上杉喜寿」氏は旧河野村大谷付近の地名に「たこ谷」や「たこ坂」の地名が現在も残っていることからここを通る昔からの道を紫式部が通った道だと推測しています。

この道は昭和37年頃の国土地理院の地図を見ると「山中峠越え」や「菅谷峠越え(塩の道)」などの「かへる山」と呼ばれてた山地付近にある多くの山道と共に点線で記載されているそうです。

この「たこ坂越え」の道は国府から南へ進み、「春日野」から山地に入り「具谷峠(七曲峠或いは七万曲とも言う)」(新武生トンネル上にある)を越えて「具谷」集落を通り「山王山」の西側の山王峠(「日吉神社跡」や「馬つなぎ石」がある)を越えて「河内」集落に下ります。
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「河内」から「菅谷」へ南下する道を約1キロ進んだ地点から南西に入る谷へ入り、「たこ坂」を「大谷」集落に向かって南へ斜めに下る道だそうです。
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現在は使用されていない為に笹や植林によって道が荒廃している箇所も多く、よく見るとU字形に凹んでいるので道があったのではと推測できる状態のところもあります。

現在、「たこ坂」があった国道8号の旧大谷第一トンネル付近(「道の駅河野」から南へ約500m)のドライブイン跡に「たこ坂と紫式部」についての説明看板が建てられています。
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2007年12月 4日 (火)

継体天皇から紫式部へ

福井は12月に入り、雪雷の到来と共に初冬へと季節が移り変わってきました。
継体天皇が即位して1500年を迎えて各地でいろいろな記念行事が行われた2007年も終わりに近づこうとしています。

先日、福井市内中心部にある「足羽山」を訪れてきました。
山は紅葉も終わりに近づき、遠くには新雪に覆われた「白山」を望むことができました。
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この山稜部には継体天皇を祀る「足羽神社」があります。
最近まで社殿の建て替え工事が行われていましたが、社務所の一部を残して真新しい社殿が完成していました。
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この神社の宮司「馬来田(まくだ)家」は継体天皇の妃「広媛」の三女「馬来田皇女(まくだのひめ)」を祖先とするそうです。


Img_5786 また、「足羽神社」から約200m離れた山稜部には明治16年に円墳の上に建てられた「弓杖を持つ継体天皇像」があります。



記念の年は終わりますが、福井市を訪れる機会がありましたら、是非とも訪れてみてください。

さて、来年(2008年)は「継体天皇」に換わり、平安時代の女流作家とも言うべき「紫式部」が記した「源氏物語」の生誕1000年の記念の年です。

これは、「紫式部日記」の寛弘5年11月1日(グレゴリオ暦1008年12月7日)「五十日の祝」の記述に酒に酔った「左衛門督(藤原公任)」が「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらう」と紫式部に声をかけた」とあることから、この時期には「源氏物語」が読まれていたとする事からだそうです。

Img_4376_2 「紫式部」は福井県にもゆかりのある人です。

西暦996年(長徳2年)に父「藤原為時」が越前守に任命されたことから、父の身の回りの世話をするために越前国の国府(現在の越前市)に来たそうです。

しかし、藤原宣孝(のぶたか)との結婚の為に約1年半で都に戻ったそうです。

短い間でしたが越前国府での思いでは「源氏物語」の中にも現れていて、

「源氏物語・逢生(よもぎう)の巻」には「逢生の陰に深うつもりて 越の白山思ひやらるる」

「源氏物語・浮舟の巻」には「たとへ武生の国府にうつろい給ふとも 忍びて参り来なんを・・・・・・」

との記述を見ることが出来るそうです。

Img_4297 残念ながら越前市中心部に眠っているといわれる越前国府はまだ発見されていません。
しかし、市の南西部に造られた「紫式部公園」には日野山を望む紫式部像が建立されています。

そのほか、紫式部が都に帰る時に好奇心からわざわざ立ち寄ったと言われる越前海岸「大谷浦」に下る「たこの呼坂」跡には記念の案内看板が建てられています。(国道8号線沿い、道の駅「河野」から南に約500mにある旧大谷第1トンネル近くのドライブイン跡付近)
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「紫式部のプロフール」

本 名   不明、一説には藤原香子(こうし、或いはたかこ)

俗 称   紫式部 (紫は「紫の上」から、式部は父の官職名から由来したそうです)

生年月日   不明  (993年又は997年ごろ)

没 年     不明  (1014年又は1019年ごろ)

父   藤原為時 (藤原北家の出)
母   藤原為信の娘

本籍地(生家)
京都市右京区北之辺町(盧山寺境内付近)

職 業   一条天皇中宮「彰子」の女房
        女房名  藤式部(ふじのしきぶ)

略歴
996年(長徳2年) 越前国府へ
997年(長徳3年)晩秋から初冬頃 都へ戻る
998年(長徳4年)頃 藤原宣孝と結婚(三年後夫と死別)
999年(長保元年) 賢子(かんし・又はかたいこ)を出産
1005年(寛弘2年)12月  中宮「彰子」の女房となる
1011年(寛弘8年)頃、女房を辞める

没年について
通説では三条天皇の長和年間(1012年から1016年)に没したとされている。
長和2年(1013年)5月25日の藤原実資の日記「小右記」に紫式部が登場しているため、この日以降に没したのではないかと言われている。

墓について
京都市北区紫野西御所田町二番地(堀川北大路下ル西側)にある墓が紫式部の墓だと伝わっているそうです。

  

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