番外編 「紫式部」と「催馬楽(さいばら)」
今から千年余り前、「紫式部」は越前国の国府「たけふ」の地でひと冬を過ごしたと言われています。
越前国府が置かれていた「たけふ」の地名は古代伝承歌謡「催馬楽(さいばら)」の中の「道口(みちのくち)」という曲に登場します。
「道 口」
「みちのくち たけふのこふに われありと おやにまうしたべ こころあひのかぜや さきむだちや」
木村紀子訳注の東洋文庫「催馬楽」(平凡社)や臼田甚五郎訳注の日本古典文学全集「催馬楽」(小学館)などによれば、「催馬楽(さいばら)」は平安時代頃まで琴・琵琶・笛・筝・笙・篳篥などで奏でる曲と共に歌い継がれていた歌謡だそうです。
しかし、当時すでに「古謡」として位置付けられ、本来は世相を歌った庶民の労働歌のようなものらしいのですが、その成り立ちや意味が解らないまま、口伝として受け継がれていたそうです。
古代の伝承歌謡には「催馬楽」のほかにも「神楽」・「風俗(ふぞく)」があり、この中で神事などに関わりのある「神楽」は現在まで伝承されていますが、「風俗」は平安時代には衰退していたようです。 さて、今から千年余り前の平安時代中頃に一条天皇の中宮「彰子」に女房として仕えた「紫式部」も「催馬楽」についてよく知っていたようです。
「紫式部」が書いたとされる「源氏物語」の巻名の中には「梅枝(うめがえ)」・「竹河(たけかわ)」・「総角(あげまき)」・「東屋(あずまや)」と言う、「催馬楽」の中の曲名が使われているそうです。
また、物語の中にも20曲ぐらい「催馬楽」の曲を連想させる文章があるそうです。
「催馬楽」は平安時代末ごろには衰退して、僅かに残って伝わっていた61曲を体系的に取りまとめた、源雅信の流れを組む「源流」や藤原氏に伝わる「藤流」の楽譜とも言うべき本が後世に写本として伝わっているようです。
しかし、歌い方や曲は符号として残っているのみで、何度か復元に取り組まれていますが、当時とはすこし違っているようです。 さて、「催馬楽」の中の「道口(みちのくち)」のほかに「刺櫛(さしくし)」にも登場する「太介不(たけふ)・太介久(たけく)」の語源は定かではありませんが、「源氏物語」の中でも「たけふのこふ」と記していることから越前国府が置かれた地域が「たけふ」と呼ばれていた事は事実のようです。
しかし、「延喜式」や「和名抄」などに記述がない事から公式的な呼び方ではなかったようでず。
中世には「府中」と呼ばれていましたが、明治時代の初めに大都市以外の地を「府中」と呼ぶ事は好ましくないというお達しが政府より出たために「催馬楽」に残る古い呼び方「たけふ」が町の名前として使われることになりました。
そして「たけふ」に対する漢字として「武生」があてられることになったそうです。
なぜ、「武生」という漢字になったかは不明ですが、「竹」がたくさん生えていた所から「竹生」あるいは「竹府」と書かれたことに加えて、この地を長く治めていた「本多氏」に対する忠誠心が強く、武士に対する誇りを保っていた土地柄だったために「竹」を「武」に変えて「武生」としたと言う説があります。 また、「継体天皇」の伝承が伝わる土地であったことから「続日本紀」称徳記の天平神護元年十二月の記述にある馬飼いに優れた百済系の渡来氏族に与えられた「武生」という氏族名から「武生」となったという説もありますが信憑性は不明です。
明治42年ごろ発刊された郷土誌「若越小誌」(福井県)によれば、藩は「武生」の読み仮名を「タケヲ」と記したが俗に「タケフ」と読まれたと記しています。
現在は平成の市町村合併によって「武生市」と言う由緒ある名前から「越前市」に変わっています。