2007年12月29日 (土)

継体天皇即位1500年記念年の終わりに

Kuzuha21 2007年も残すところ2日です。

2007年は継体天皇が樟葉宮(大阪府枚方市)で即位して1500年の記念の年でした。


Takamukuzinnzya1 日本書紀によると福井県(越前国)は継体天皇が幼年時代から即位するために旅立つまでの人生の大半を過ごした地と書かれています。
また、福井県内各地には継体天皇を祀る神社や伝承が数多く残されています。(くわしくはこのブログの過去の記事をご参照ください)

このために福井県内では記念イベントや継体天皇と関わりのある地域との交流も多く行われました。

2007年の記念の年は終わろうとしていますが、結ばれた絆を大切にして新しい交流の輪に広がって行くことを願いたいものです。


Tutukinomiya21 そして4年後、2011年には「継体天皇筒城宮遷都」記念として同志社大学田辺キャンパスで大きな交流の花が咲くことを夢見ています。




継体天皇にゆかりのある初詣スポットについては
このブログの過去の記事
継体天皇にゆかりのある主な神社
をご参照ください。

2007年4月13日 (金)

物部氏と穂積氏

今から1500年前に即位した「継体天皇」の時代は、朝鮮半島での各国との勢力争いが大きな問題であったと言われています。

朝鮮半島は日本から見て一番近い大陸文化や資源の渡来経由地として重要な位置に在ったようです。
この朝鮮半島南端部の中で日本に近く、友好的な地域が「伽耶(かや)」または「任那(みなま)」と呼ばれた地域だそうです。
昔は日本の植民地のように言われていましたが、現在では西を「百済」、東を「新羅」に挟まれた小さな国の連合体で、常に周辺国から圧力を受けていて、その外圧のバランスから独立した地域として成り立っていたと言われています。

「日本書紀」によれば、「継体天皇」の時代において、朝鮮半島問題に大きく関わった人物として「穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)」が登場します。

Isonokamizinzya11_1 「穂積氏」は大和国山辺郡穂積邑に起きた氏族と言われ、現在の奈良県天理市あたりだそうです。
この地には、「物部氏」の祖が祀られている「石上神社」がありますが、「穂積氏」も「物部氏」と同じ祖を持つ同族で在ったと言われています。

「日本書紀」には「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を助けるために海に入水して嵐の海を鎮めた妻として「弟橘媛(おとたちばなひめ)」が登場しますが、この媛は「穂積臣忍山宿禰(ほづみのおしやますくね)」の子だと書かれています。

なお、苗字の中で「佐藤氏」と並んで多い「鈴木氏」は、幾つかの系統に分かれるそうですが、この中の最大の系統は熊野新宮地域から生まれた「穂積氏」の流れを受け継ぐ「熊野鈴木氏系統」とされ、熊野神社の神官を務めていた「鈴木一族」が全国に広がったと言われています。
熊野地方では積まれた稲穂を「すすき」或いは「すずき」と言い、これに当て字して「鈴木」の苗字が生まれたそうです。

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2007年3月23日 (金)

継体天皇の失われた石棺

10imasirozuka48_1 今から1500年前に第26代天皇として即位した「継体天皇」の本当の陵墓と言われる「今城塚古墳」の第10次調査により、古墳にあった石室とその中の石棺は1596年に起きた「伏見大地震」以前に石室と石棺が失われていた可能性が大きいことが解って来ました。


10imasirozuka42_1 これまでの「今城塚古墳」の調査により3種類の異なった石棺に使われたであろう石片が発見されています。
このことから古墳には3つの石棺が納められていたのではないかと言われています。
この石片は熊本産の「馬門石(まかどいし)」と二上山産の「二上山白石」、そして播磨産の「竜山石(たつやまいし)」の三種類です。

10imasirozuka43_1 この中で「継体天皇」の石棺にふさわしい石材は九州熊本産の「馬門石」、またの名を「阿蘇ピンク石」だと言われています。
この石材は熊本県宇土市網津町馬門地区から産出される石だそうです。

この「馬門石」が使用されていると推定される例として

野神古墳棺(岡山県長船町)
長持山古墳棺(大阪府藤井寺市林)
金屋の石仏下の棺(奈良県桜井市金屋)
兜塚古墳棺(奈良県桜井市浅古)
東乗鞍古墳奥棺(奈良県天理市乙木町)
円山古墳棺(滋賀県野洲市)
甲山古墳棺(滋賀県野洲市)
植山古墳西石室(奈良県橿原市五条野町)

Yasukabutoyamakofun11 Yasukabutoyamakofun22




(写真は滋賀県野洲市甲山古墳)

などがあり、九州から瀬戸内海を渡って持ってこられたようです。

Tennouzihaireiisi11 また、変わったものでは大阪市天王寺区にある聖徳太子ゆかりの天王寺南大門近くにある「熊野権現拝礼石(大阪市天王寺区)」も「馬門石」だそうです。



お知らせ

継体天皇の故郷、滋賀県高島市安曇川町「藤樹の里文芸会館」にて来る3月25日日曜日午後2時から「謎の大王 継体天皇を探る」と題して、水谷千秋先生を招いて講演会が開催されます。
くわしくは、高島市教育委員会までお問い合わせ下さい。

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2007年2月18日 (日)

継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう)

第26代継体天皇の出生については、「日本書紀」の中に書かれています。
しかし、「日本書紀」とは異なる出生の伝承が書かれた資料がありました。

それは「真清探當證(ますみたんとうしょう)」と言う資料です。
この資料には「継体天皇」が「雄略天皇」の皇位継承の際に殺された「市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)」の子供で後の「第23代顕宗天皇」になった「弘計王(をけのみこと)」の子供として生まれたと書かれています。

この「真清探當證」のあらすじは、「小椋一葉氏」に拠れば次のようなものです。

後の雄略天皇は帝が殺された事をいち早く知り、皇位継承の邪魔になる皇子たちを抹殺しようと計画し実行しました。
そして、この難を逃れたのが「市辺押磐皇子」の子供「億計王(おけのみこと)」と「弘計王(をけのみこと)」の兄弟と「市辺押磐皇子」を頼って逃れてきた「彦主人王(うしのみこと)」でした。
Masumidazinzya11 「市辺押磐皇子」の家臣の計らいで3人は難を逃れて「市辺押磐皇子」妃の兄にあたる葦田(あしだ)氏が神主を務める尾張の「黒田神社(真清田神社のこと)」に身を潜めることになりました。
そして時が流れて「彦主人王」の後を追って来た娘「豊姫」と「弘計王」の間に子供が生まれました。この子供が後の継体天皇になる「男大迹王(をほどのみこと)」です。
Neo21 「男大迹王」は生後45日で災いを避けるために「草平とおなみ」夫婦に預けられ、山奥の「根尾村」で密かに暮らすこととなりました。



月日が過ぎて「雄略天皇」が亡くなり、二人の皇子は「清寧天皇」により都に迎えられ、「清寧天皇」が亡くなった後、弟の「弘計王」が即位して続いて兄の「億計王」が天皇に即位しました。

根尾村で暮らしていた「男大迹王」は「草平とおなみ」夫婦の娘「目子姫」と結ばれ二人の皇子を産みました。
そして父の「弘計王」が亡くなり、「億計王」が即位するときに都に呼び寄せられました。
Neousuzumisakura22 (このとき、別れを惜しんで植えた桜の木が根尾村に伝わる「根尾のうすずみ桜」だと言われています。)



以上の様に「日本書記」に継体天皇の父と母で登場する「彦主人王」と「振姫」は、ここでは父「彦主人王」と娘「豊姫」として登場しています。

Neo22 また、乳母「おなみ」対しても別れを惜しんで桜の木が贈られたそうです。
その桜は「根尾」から「尾並峠」を越えて「塩後」地区(山県市葛原塩後)の「乳児の森公園」に「おなみ桜」として守り伝えられています。


Neo24 なお、「おなみ桜」の近くに小さな祠と三つの岩があり、「乳児神社」と言われ「乳房の神」として祀られているそうです。ご神体の岩を触ると母乳がたくさん出るようになると言い伝えられています。



この「真清探當證」およびその著者についての考察の詳しい内容は「小椋一葉氏」が書いた「継体天皇とうすずみ桜」(河出書房新社)を読んでください。

「小椋一葉氏」に拠ると、この資料は昭和初期頃に愛知県一宮市に住んでいた「土田氏」が書いたものらしいのです。
しかし、この資料の元になった古い伝承や古文書が在ったというのです。
「土田氏」は愛知県一宮市にある尾張一之宮「真清田神社」に関わりのある家柄だったようです。
また、「真清田神社」には「真清探桃集(ますみたんとうしゅう)」と言う古文書が在ったといい、この古文書は江戸時代に神社の神職に拠ってもっと古い資料に基づいて書かれたもののようです。
その他、「真清田神社」の周辺には、「弘計王」と「億計王(おけのみこと)」の二人の兄弟皇子についての伝承が伝わっているそうです。

「真清探當證」に書かれている「継体天皇」が隠れ住んだと言われる「根尾村」(現在は合併して岐阜県本巣市)は越前(福井県)とも「温見峠」で繋がり、継体天皇の父方の祖母の故郷「武儀郡」にも接しているところにあります。
また「真清田神社」も尾張の一之宮として古くから何だかの社があったことや継体天皇の妃、尾張氏出身の「目子姫」との関係などから考えると古くから「継体天皇」或いは「安閑・宣化天皇」に繋がる伝承があったのかも知れません。

所在地については下記の地図をご参照ください。

「真清田神社」
愛知県一宮市真清田1丁目2の1
JR尾張一宮駅・近鉄一宮駅から徒歩10分

Masumidazinzyatizu1
















「根尾薄墨桜」
岐阜県本巣市根尾板所
樽見鉄道樽見駅から徒歩10分

「おなみ桜」
岐阜県山県市葛原塩後
根尾薄墨桜より約10キロ

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2007年2月14日 (水)

古代の気候と継体天皇

今から1500年前の旧暦2月4日に「樟葉宮」で第26代継体天皇が即位しました。

「暦」は5世紀後半に中国から伝わりました。
この頃の「暦」は「太陰太陽暦」で、明治の初めまで日本でも使われていました。

正月は大寒を過ぎた後の新月の日とされていたようです。
現在では「1月21日から2月21日までの間の新月の日」で、年によって約1ヶ月も違ってきます。

さて、近年の「泥炭層のボウリング調査」や「木の年輪の間隔」・「海水面の高さの跡の研究」などから古代の気候の様子が解ってきました。

それによると継体天皇が生きていた5世紀後半から6世紀前半は寒い気候で鎌倉時代の後半から室町時代の初め頃、南北朝時代の気候より少し寒い気候だったようです。
因みに平安時代が一番最適な気候だったと言われています。

時代はすこし後になりますが、豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」は旧暦の3月15日でした。

この様なことから「継体天皇」が即位した旧暦2月4日は「啓蟄」頃にあたりますが、「春」と言っても相当寒かったのではないかと想像します。(因みにこの日は「大安」でした。)

なお、継体天皇が即位した日は現在のグレゴリオ暦で計算すると「西暦507年3月5日」にあたるそうです。

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2007年2月12日 (月)

建国記念日と継体天皇

2月11日は建国記念日です。
また2月4日は継体天皇が「樟葉宮」で即位した日です。

これらの月日の根拠になっているものは、古代日本の正史書「日本書紀」です。
「日本書紀」は7世紀後半「天武天皇」の発願によって編纂が始まったとされ、当時手に入った国内外の各種の書物を参考にして創られたと言われています。

「日本書紀」は天と地が生まれる時からの物語に始まり、天孫降臨から百七十九万二千四百七十余年後の紀元前665年頃に後の「神武天皇」が東征を決意して4年後に河内国に入り、紀元前660年に橿原宮で初代天皇として即位して以後の歴史を歴代天皇に関わる事を中心に年代を記して順に述べられています。

「日本書紀」については「国学」が盛んになった江戸時代以降、活発に論議が繰り返されて研究も進んできました。

この中で「日本書紀」に使われている「暦(こよみ)」についても研究が進み、第20代「安康天皇」前後の記述を境にして古代中国から伝わった「儀鳳暦(ぎほうのこよみ)」と「元嘉暦(げんかのこよみ)」という二つの暦が使われていることが判ってきました。

そして驚くことに初代「神武天皇」から第19代「允恭天皇」頃までの前半に使われている「儀鳳暦(ぎほうのこよみ)」は「安康天皇」以後の後半部分に使われている「元嘉暦(げんかのこよみ)」よりも新しい暦であり、編纂が始まった頃に使われた当時最新の「暦」であることが判ってきました。

この事から日本に「暦」が伝わった5世紀後半以後の「元嘉暦」が記された資料とそれ以前の「暦」による年代が記されていない資料を元に「日本書紀」が編纂されたのではないかと言われています。

さらに驚くことに、年代のはっきりしなし部分は百済などから伝わった資料を元にして辻褄が合うように年代を創作したと言うのです。

さらにさらに驚くことに初代「神武天皇」の即位年は、編纂当時の最新の暦「儀鳳暦」の基本となる「総法1340」という周数(周期数あるいは循環する序数)であり、宇宙と人間界を貫く真理(普遍的なものまたは新しく生まれ変わる或いは革命的変化が起こる)とも考えられた聖なる周数「1340」を元に創作決定されたと言う説があります。

これは「天武天皇」が「日本書紀」の編纂を発表した西暦681年から一巡(1340年)遡った年を計算して、即位年(西暦紀元前660年)を創作決定したのではないかと言うものです。
このために歴代天皇の在位年数が異常に長いものや架空の天皇が存在する事になったのではないかとも言われています。

「暦」については、有坂隆道氏が書かれた「古代史を解く鍵 暦と高松塚古墳」(講談社 1999年)の「第一章 日本書紀の暦日」をお読みください。

また、倉西裕子氏が書いた「日本書紀の真実 紀年論を解く」(講談社 2003年)などもご参照ください。

因みに建国記念日の2月11日は「日本書紀」に書かれている初代「神武天皇」の即位年月日「辛酉年正月庚辰朔」(辛酉(かのととり)の年1月1日)を明治時代にグレゴリオ暦(現在の暦)で計算して定められた月日です。

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2007年2月 9日 (金)

継体天皇伝説外伝 秋田県鹿角市

十和田八幡平国立公園内にある秋田県鹿角市には「大日霊貴(おおひるめむち)神社」(鹿角市八幡平小豆沢)通称「大日堂」と呼ばれる神社があります。

ここには、継体天皇に関わる「ダンブリ長者」の民話と毎年1月2日に行われる無形民俗文化財「大日堂舞楽」が伝わっています。

物語は若干違った形で幾つかの伝承があるようですが「長者になった夫婦とその娘の物語」です。

民話「ダンブリ長者」(概要)

昔々、継体天皇の時世に太郎という働き者の若者が父親と二人で暮らしていました。
ある日、徳子という娘が神様のお告げに従って太郎の村にやって来て二人は結ばれました。
太郎夫婦は貧しい暮らしでしたがよく働きました。

ある日、太郎の耳元に飛んできた「ダンブリ(方言でとんぼのこと)」が「若返り酒がわき出る泉」の場所を太郎に教えました。
そして、病気の父親にその酒を飲ませると見る見る元気になりました。
この事が評判になり、太郎夫婦は大金持ちになりました。

そして娘を授かり美しく育ったある日、娘が帝に仕えることになり太郎夫婦は娘を連れて都に上りました。
娘は「吉祥媛」と呼ばれる妃になり、夫婦には「ダンブリ長者」の称号が与えられ故郷に帰って祝宴を開きました。(一説にはこれが大日堂舞楽の始まりとも言われています。)
月日過ぎ、夫婦は老いて亡くなりました。

一方、娘の「吉祥姫」は両親が亡くなった事を知り、悲しみました。帝は「吉祥姫」に両親の霊を慰める「社」を故郷に建てるように言われました。こうして建てられたのが「大日堂」です。

時が流れ、養老2年に長者の話を聞いた元正天皇は僧の行基に荒れ果てた「大日堂」の再建を命じ、そして見事再建された大日堂の落成に際して舞楽が奉納されました。
これが今に伝わる「大日堂舞楽」の始まりだそうです。

「大日堂舞楽」は九つの舞から構成され、「大日堂」の由来に関わる内容です。

詳しくは「鹿角市のホームページの鹿角のむかしっこ」または「大日堂舞楽」をご覧ください。

「大日霊貴(おおひるめむち)神社」の所在地については下記地図をご参照ください。

「大日霊貴神社」(鹿角市八幡平小豆沢)
JR花輪線八幡平駅下車
Hatimantaitizu11

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2007年2月 2日 (金)

2月4日 継体天皇即位1500年の記念日

2007年2月4日は第26代継体天皇が507年に「樟葉宮(くずはのみや)」で即位した日にあたります。
(現在の暦に直すと西暦507年3月5日だそうですが。)

古代の正史「日本書紀」によれば、

継体元年二月辛卯朔甲午(旧暦 507年2月4日)
大伴金村大連がひざまずいて、天子の璽符(みしるし)の「鏡」と「剣」を奉って拝礼しました。
男大迹命(をほどのみこと)は「自分は力不足なので他の賢者を選んでほしい。」と辞退されました。
大伴金村大連は地に伏してお願いしました。
男大迹命は西に向かって3回、南に向かって2回、辞譲の礼を繰り返しました。
大連たちは口をそろえて、「命の他には適任者はいません。どうか、お聞き届けください。」と嘆願しました。
男大迹命は「すべての者が願うので在れば、聞き届けない訳にはいかない。」と言われて、璽符(みしるし)を受け取られて即位しました。
という即位式の様子を記しています。

即位式については、中国から伝えられた即位形式が行われ、即位に際して三回辞退する辞譲の礼を行ったようです。。
また、天皇の即位に必要な「三種の神器」は、この時代にはまだ整っていなかったようです。

Kuzuha21_3 今から1500年前に即位式が行われた「樟葉宮」は現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある「交野(かたの)天神社」内の森の中にある「貴船神社」付近とされています。



枚方市周辺には継体天皇に関する史跡が多くあります。

Imasirozukakanban11_1 高槻市
継体天皇の本当の陵墓とされる
「今城塚古墳」があります。


Ootachausuyama11_1 茨木市
宮内庁が指定している継体天皇陵墓
「太田茶臼山古墳」があります。



Tutukinomiyasekihi1_1 京田辺市
継体天皇の二番目の宮跡「筒城宮跡」
同志社大学田辺キャンパス内に石碑があります。
(正門で見学許可が必要です。)
近くに候補地の「観音寺」もあります。

Otokunizi1_1 長岡京市
継体天皇の三番目の宮跡「弟国宮跡」
候補地「乙訓寺」があります。




所在地の詳細については「カテゴリー」の項目「近畿地区」をクリックして目的の記事をご覧ください。

なお、枚方市では2007年2月4日日曜日に継体天皇に関する歴史フォーラムなどが開催されます。
詳しくは枚方市のホームページをご覧ください

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2007年1月26日 (金)

男大迹王 倭の使者と会見

今から1500年前の西暦507年1月6日に天皇への即位を招請する使者は越国三国(現在の福井県坂井市)へ向かいました。
「男大迹王(をほどのおう)」(後の継体天皇)は侍臣を整列させて倭からの使者を迎えましたが、天皇への招請にはすぐには応じませんでした。
「男大迹王」は招請に対して疑念をもっていました。
しかし、たまたま知っていた「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)」から密かに使者が来て、倭政権の事情を伝えた事から招請を受けることとなりました。
そして、1月12日に樟葉宮(現在の大阪府枚方市楠葉 交野天神社)に着いたと日本書紀に書かれています。

Tennoudu1_2 現在、福井県坂井市丸岡町女形谷には「男大迹王」の宮があったと言い伝えられ、「天皇堂」と呼ばれるお堂の跡があります。
ここが会見の場所と言い伝えられ、「男大迹王」が座ったと言われる腰掛け石があります。


Yokoyamazinnzya1_2 また、近くの坪江地区には継体天皇を祀る「横山神社」があります。





Wankasiyama11 その他、この周辺には「わんかし山古墳」の他に山稜に古墳が点在しており「横山古墳群」と呼ばれています。




因みに、福井県坂井市丸岡町から大阪府枚方市までの約200キロあり、徒歩で向かったとすると6日ぐらいの日程が必要となります。
また、馬を使用したのであれば、日本在来馬で時速30キロぐらいで走るそうなので1日か2日程度で到着したのかも知れません。

福井県坂井市丸岡町周辺の継体天皇関連史跡については下記の地図をご参照ください。

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2007年1月23日 (火)

王を迎える使者 「三国」へ向かう

日本書紀によれば、今から1500年前の西暦506年12月21日、第25代武烈天皇の崩御に伴い、次期天皇を選ぶ合議が開かれました。
大連「大伴金村」および大連「物部麁鹿火」と大臣「許勢男人」たちによる合議の結果
「丹波国桑田郡に住む、第14代仲哀天皇の5世の孫 倭彦王(やまとひこのおおきみ)」を指名した。
そして輿を守る兵士と一緒に使者を丹波国へ向かわせました。
しかし、倭彦王は物々しい軍勢を見て驚き山中に逃げて行方知れずになってしまった。

そこで、年が明けた西暦507年1月4日、2回目の合議が開かれ、
「越国三国に住む、第15代応神天皇の5世の孫 男大迹王(おほどのおおきみ)」を指名した。
1月6日、連や臣らに君命を受けた印の旗と王が乗る輿を準備して越国三国へ使者を向かわせました。
以上のような事が書かれています。
これが、1500年前に起きた、「武烈天皇」が崩御されてから「継体天皇」が即位する前までの倭政権内部の様子です。

さて、「男大迹王」を迎えに「越国三国」へ向かった使者はどのような道筋を辿って「三国」へ行ったのでしょうか。

Izumo12zinzya11_1 武烈天皇の宮は三輪山の麓、初瀬川沿いの谷にある「泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)」(桜井市出雲 十二柱神社付近)です。



ここから使者は出発して、三輪山沿いに谷を西へ下り、「金屋」付近で古代道「山辺の道」に入ります。
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Biwakokoseikesiki22 山沿いに北上して「宇治川」を渡り、「山科」から「逢坂山」を越えて琵琶湖西岸(船を使った可能性もある)を進み継体天皇の生まれ故郷「三尾」に至ります。


この先の「安曇川」を渡った付近で険しい山道を避けて若狭国へ迂回して「熊川」を経て三方五湖沿いを進み「美浜」から「関峠」を越えて「越国」へ入ります。

Takamukuzinnzya1_3 さらに海沿いに「敦賀」「五幡」「元比田」を経て「中山峠」を越えて「今庄」「味真野」から福井平野東部の山沿いを通り「坂井」の「高向」へ辿り着いたのではないかと推測します。
行程は6日から7日程度と想像します。

因みに江戸末期、越前藩主「松平春嶽」が書いた「登京日記」には「福井」から「京都」まで琵琶湖東岸を通る「北国街道」を通って5日の行程であったと書かれていますが、途中で「外国人」との接触を避ける為に日程を遅らせているので正味4日の行程と考えられます。

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